坂本龍馬、皇后の夢枕に立つ 11 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 本シリーズは今回で終わることとしたい。

――こんな記事を書くくらいだから、オオヤマとやらは田中光顕が嫌いなのだろう。

 そのように邪推される向きもあるやもしれない。もとより好き嫌いなどは論じる意味も無いことだが、あえて申さば田中のことは好きでもないが、まったく嫌っているわけではない。どことなく人間味が感じられて、憎めない人だとも思っている。

 ただ嫌いなだけなら人物像を探るために史料・文献をあたるなどという面倒ごとはしない。あえて関わろうとは思えないからだ。

 たまたま歴史を論ずるうえで好悪の感情を排すべきだと気づいた人が、ココにいる。

 まったくもって、そのとおり。歴史観は客観的であるべきなのだ。

 筑波大学名誉教授の大濱徹也先生は、ある講座で「歴史に客観なんてあるの?」という、実に衝撃的なことを口にしたことがあった。それはあたかも苦行を重ねた高僧が「悟りはない」というような境地に達したのに似ている。学問の道を突き詰めてこそいえることである。

 どんな学問的権威者であれ、主観を完全に消すことは出来ない。イデオロギーであったり、好悪の感情であったり、いずれかの主観が混じった状態で歴史は論じられている。だからといって、自分が感情的に歴史を論じているかどうか自覚がなくても構わないとはいえない。

 かつて福地源一郎あたりが明治佐幕派と呼ばれたことがある。ならば現代において佐幕派に心酔する論者は平成佐幕派とでも呼ぶべきだろう。史学ではなく文学の方面から、そんな平成佐幕派に対して一石を投じる論文があった。東京外国語大学総合国際学研究院(言語文化部門・文化研究系)教授の柴田勝二氏による『「倒幕派」としての漱石』がそれである。

 漱石は作品を通して明治政府を批判した人であったが、旧幕府のあり方に対しても批判的で、佐幕的な心情は希薄である。一貫しているのは反権力という姿勢であって、平成佐幕派が佐幕だの討幕だのという対立項にあてはめようとするのは、お門違いである。

 翻って、我が身を顧みるならば、ある人物を飾り立てようとすることが嫌いなのだ。だから"維新の英傑"が神格化されるなどは大嫌いで、坂本龍馬の神格化を図った田中や香川の所業も憎いと思うのであるが、それにも限度があって、前述のとおり田中の人格を全否定するほどではない。

 やはり自分自身にも好悪の感情があり、それに突き動かされて歴史を論じる面は自覚しているけれども、どこまで感情を抑制できるかは歴史家としての価値を問われる部分であるから、感情に溺れないように注意をはらってきた。

 以上、本シリーズを終えるにあたり、蛇足の感なきにしもあらざるも、あえて付言する次第である。

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