薩摩側から見た生麦事件 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 生麦事件の犠牲者リチャードソンが母国の親族に送った手紙が発見されたとのことで、ツイッターでは歴史クラスタのTLが賑わっている。遺憾なのは、そのツイートのなかに外国人テロと同一視するものが散見されたことだ。

 一般にテロと見なされるのは異人斬りで、はじめから外国人を斬るつもりで行動したものをいう。それに対して生麦事件は、薩摩藩が外国人を斬るために大名行列をしながら横浜の近傍を通ったわけではない。だいたい薩摩藩は無謀な攘夷運動を抑止すべく、自藩の攘夷派を寺田屋騒動で殺したばかりのことではないか。

 また斬られたリチャードソンは観光目的で来日していた。日本に不利益をもたらす悪辣な外国商人ではなく、いわゆるテロ行為としての異人斬りのターゲットにはなりにくい人だったはず。テロリストだって斬奸状というものを書く。それが「日本へ物見遊山に来たのがけしからぬ」というような内容では、斬るだけの理屈になるまい。

 どう考えても生麦事件は偶発的な出来事なのだ。

 ただ、その根柢には相互無理解があった。薩摩藩士たちも腹の底では異人が嫌いなので、外国人に対する理解を深めようとしない。外国人観光客も長期滞在する外国人ほどには日本の習俗を深く学ぼうとはしなかっただろう。

 薩摩側から見た生麦事件について、晴海文庫『元帥公爵大山巌』の第五章の前半部を引用しておく。

第五章 薩英戰爭と決死隊
 文永弘安の元寇に、文祿慶長の征韓に、空前の偉勳を奏したる薩摩隼人の傳統的武勇は、延いて幕末に至り、端なくも世界第一の海軍を有する歐洲強大國との一大決戰に於ても亦たその本領を發揮し、中外をして齊しく耳目を聳動せしめたのは、實に文久三年七月二日、三日の薩英戰爭であつて、元帥は從兄弟の間柄で同功一體の人たる西鄕從道と與に決死隊に參加し、而もそれが初陣であつた。
 この戰爭は、去年文久二年八月二十一日(西曆千八百六十二年九月十四日)、島津久光公が江戸を發して歸國の途次、武州生麥街道にて公の儀衞を橫切れる英人四名(男子三人、女子一人)の中、その一人「リチャードソン」なる者を斬り、他の二人を傷けた(女子は無事)所謂生麥事變に原因し、英國政府は之れに對して、幕府及び薩藩の責任を問ひ、幕府へは償金英貨十萬磅と謝罪状とを徴し、薩藩へは幕府を通じて、下手人の逮捕處刑と死傷者竝に遺族への弔慰金英貨二萬五千磅とを要請したのであるが、結局幕府は文久三年五月九日に至り、償金洋銀四十五萬元を橫濱にて英國代理公使陸軍中佐「ジョン、ニール」に交付したるも、薩藩は頑として之れに應じなかつた。初め鳥津久光公が勅使大原重德卿を輔佐して幕府と折衝し、遂に幕府をして勅諚を奉ぜしめ、一橋慶喜公を將軍の後見職とし、越前春嶽公を政事總裁職とし、いよいよ幕政の改革を行ひ、皇室尊奉の實を擧げしむることゝなり、久光公は大原勅使に先立つこと一日なる文久二年八月二十一日の朝、從士一千餘人を率ゐて江戸を出發し、午後二時頃生麥村に差し懸った折しも、前方より騎馬の英人四名進み來り、公の行列の右側を通行しつつあつたが、行列の先驅は二列の足輕銃隊であるから、挾い街道ながらも英人の通行を妨げなかつた。然るに此の銃隊に續く所の中小姓の士は四列であるから、騎馬では英人の通行を許すだけの道幅が無いにも拘はらず、英人は擅に進んで來るので、此の日の御供頭當番なる奈良原喜左衞門は、手眞似を以て之を制止したるも、彼等は知らざるものゝ如く之に應ぜず、無法にも行列の右側より左側に拔け通らんとして、馬を中小姓の列中へ乘り入れたので、行列は亂れて一時進行を中止するの已むを得ざるに至つたから、喜左衞門は御供頭の責任上、無禮者奴と大喝一聲、その一人を斬り、二人を傷け、斬られたる一人は暫く走って落馬したるが、當日非番であつた御供頭の海江田武次(信義)は、之を追ひ行きて止めを刺したのであった。それが「リチヤードソン」といへる英國商人で、日本觀光のために支那の香港より橫濱に來てゐた者であつた。當時橫濱居留の外人は、治外法權を楯にして、各地を橫行闊歩し、無禮を我が邦人に加へるので、是歳六月二十三日、江戸薩邸留守居西筑右衞門より幕府へ稟申するに、近頃外國人共が無禮を働くから、我が藩主修理大夫竝に修理大夫の實父三郞の江戸往來に際しても、如何なる椿事の出來も測り難けれぱ、慕府は各國長官に命じて充分に取締らしめらるべく、萬一椿事出來の節は、國威を汚さゞるやう機宜の處置を取るべきを以て、此の旨御承知あリたしと屆け出で、幕府は之に對し同月二十七日付を以て、各國長官へは取締方に就いて通達するけれども、何分風俗も違ひ、言語も不通の外國人であるから、成るべく事を穩便に取計はれ、國難を惹き起さゞるやう注意ありたしとの覺書を西筑右衞門に交付して、豫め橫濱居留の外人に警告を與へたと稱して居リ、且つ又久光公出發の八月二十一日には、橫濱の關門を鎖して、外人の出入を禁じたと辯明して居るが、事實は之れに反し、當日は恰も日曜日であつたから「リチヤードソン」等四人は、騎馬にて橫濱關門を出て、川崎大師に參詣の途中、此の事變を惹き起したもので、幕府は遂に其の失態を暴露したのであつた。當時世人が外交の不振を憂慮し、外人の跋扈を慨歎するに際し、生麥事變が起つたので、是れ實に空前の快擧であるとて、有志の間に大なる稱贊を博し、殊に山階宮晃親王殿下の如きは、「薩州老將髮衝冠。天子百官免危難。英氣凜々生麥役。海邊十里月光寒」と詠じ給ひたるが、此の事變は固よリ突發的で、決して計畫的のものではなく、且つ又島津齊彬公の遺志を繼紹して、開國進取主義を取れる久光公が、攘夷の先鋒たる筈もないのである。然るに此の事變に對して周章狼狽したる幕府は、口實を設けて薩藩を陷穽せんとし、當日久光公が駕籠の中から從士を指揮して、英人を擊たしめたのだとの虚構の宣傳を試み、後年「リチヤードソン」の遺族に對する舊幕臣からの弔慰状にも、亦た此の虚構の宣傳を事實として記載されてゐるが如きは、返す返すも遺憾千萬であるから、事變當日の久光公の態度に就いて、少しく次に述べることにする。行列の前衞に於て事が起つたので、久光公の御駕籠が一時止まり、後衞の士が其の列を離れて、事件の起つた場所へ駈け著けるので、公は御駕籠の右側に護衞せる松方助左衞門(後の正義公)に向つて、何事なるかと問はれ、助左衞門は外人が前衞を犯しましたと申し上げた時、公は靜に刀の鞘止めの紐を解いて、其の刀をヒタと左の腰脇に當てられた。その態度は實に沈著なもので、唯だ唯だ敬服するの外はなかつた。此の時助左衞門は手を擧げて大聲を發し、列を離れて事變の場所に駈け著けたる後衞の士を呼び戻し、行列は整頓して再び進行したのであるが、此の事變の爲に當日神奈川泊りの豫定を程ヶ谷泊りに變更せられ、助左衞門は橫濱の英人が公を狙擊せんことを慮って、事變以後は公の御駕籠の右側よリ左側に轉じ、英人の狙擊に備へて、身を以て公の楯となつたのであるが、幸に事なくして程ヶ谷に安著し、從士は夜を徹して護衞に努めたるに、公は何事のありしかとも知らぬ有樣にて、鼾聲雷の如く眠りに就かれたので、從士一同は又大に公の沈著に驚いたのであつた。(松方公より編者への直話)斯かる事實に照らしても、幕府側の人々が公を誣うるに、從士を敎唆して英人を殺傷せしめたと言へるが如き捏造説は、兒戲に類するものとして一顧の値もないことは勿論であるが、誤りを後世に貽さゞらんが爲に斯くは附言して置く。
 薩藩が英國の要求に應じなかつた理由には、儼然として犯すことの出來ない武士道擁護の精神に立脚し、正義公道を高唱して、一歩も讓らない所の一大決心があつた。元來大名の行列を犯した者は、其の罪死に當ることは、不文律ながらも我國從來の習慣法であるから、生麥事變に於て曲は固より彼れ英人にあるにも拘はらす、彼れの曲を以て我れの直に對し、尚且つ償金を求め下手人を嚴科に處せんとするが如きは、冠履顚倒の甚しきものであつて、我れは斷じて其の要求に應ずることは出來ない。尤も下手人は足輕岡野新助と言ふ者で、其の場から脱走して今に行衞不明であるが、強いて新助を逮捕處刑せよと言ふに於ては、當時の從士一同が皆處分を受けると申出でて居るから、是れ亦た如何とも處置することは出來ない。(岡野新助は假名の人物、下手人は御供頭奈良原喜左衞門なるも、喜左衞門は一騎當千の士であるから、之れを嚴刑に處するを惜みて、假名の人物を設け、脱走を口實としたのである。)彼れ若し兵力を以て我れに臨むならば、我れ亦た兵力を以て之れに對抗し、社稷の存亡を賭して爭ひ、決して皇威を失墜するやうな事は致さないから、此の旨を以て英國へ答辯に及ばれたしと、幕府へ屆出でたので、幕府は色を失ひ、薩英の間に挾まつて、又如何とも爲す所を知らず、漸く幕府の償金だけを仕拂つて、其の責を逃れたのであつた。
(以下略)

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