近藤勇と土蔵の伝承 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 流山には、いわゆる「近藤勇陣屋跡」があります。その地で近藤勇が盟友だった土方歳三と永遠の別離を迎えた一幕があったのは、たしかな歴史的事実です。

 その別離の地までは、上野駅から一時間くらいの道のりです。まずは常磐線で松戸まで行って、緩行線(千代田線直通)に乗り換えて馬橋まで、そこから流鉄流山線に乗り換えます。



 まだまだ現役、昭和生まれの電車に揺られて終点まで行くと流山です。



 関東の駅百選に入った駅舎です。やはり木造だと趣がありますね。



 駅前には周辺の案内地図があります。この地図では、近藤・土方永遠別離の地は「新選組流山本陣跡」として示されていますが、近藤が流山を訪れたときに率いていた部隊は銃を装備した洋式歩兵が200名あまりで、京の都で活躍していた頃の新選組とは異なります。



 駅を出てすぐに見えるバス通りの横断歩道を渡って、左に進むと、この看板があります。ここでは「新選組陣屋跡」となっており、表記は異なりますが近藤・土方別離の地のことです。



 看板が示す方へ路地を入っていくと、この「近藤勇陣屋跡」の石碑があります。その脇にある土台石こそ、その当時から残っている貴重な遺構です。
 長岡屋というのは俗称で、厳密にいうと永岡三郎兵衛という人が営んでいた鴻池という屋号の造り酒屋の土台石です。ここを近藤・土方たちが宿所としたのです。



 石碑の後ろに板塀を挟んで立派な土蔵が建っています。明治以前に建てられた古い土蔵なのですが、大正時代に移築されたものです。(写真は修復以前のもので、現在は壁が真っ白に塗られています)
 大正9年版の『流山町誌』によると
驍将近藤勇陣営
 鳥羽伏見の戦に驍名を轟かしたる新撰組隊長の陣営、根郷、今の町役場の西にあたる空地にありしなり。

 と、記されています。当時の町役場は、いま石碑があるあたりでした。近藤勇の陣営は「西にあたる空き地」というのですから、すでに大正時代には建物が残っていなかったのです。
 そして、石碑が立ったのは昭和50年代です。それまでの間、近藤・土方別離の一幕を偲ぶモニュメントの役割を果たしてきたのは移築された古い土蔵だったといえるでしょう。わざわざ遠くから近藤・土方を慕って訪れる人々のために、せめて江戸の昔の雰囲気を感じて貰おうという土地所有者である秋元家の心意気を感じます。
 それにしても、なぜモニュメントが土蔵だったのでしょう? 残念ながら、移築当時の経緯については不明です。しかし、その運命の日に立ち会った新政府軍側の西村捨三(彦根藩)という人が書いた回顧録『御祭草紙』には近藤の本陣に土蔵があったということが記されています。余談ながら、西村は維新後に大阪府知事(第6代)、内務省警保局長(初代)など要職を歴任した人です。
 その回顧録が出版されたのは明治41年のことですから、大正時代にはそのことが知られていたと思われます。だとすると、秋元家が新築ではない古い土蔵を移築してきたのは、やはりモニュメントとしての役割を意識していたのだろうと察せられます。
 回顧録『御祭草紙』の流山に関する内容は、最晩年を迎えた老人が40年前のことを回顧しているのですから、記憶違いの可能性もありますが、明治末年には「その当時、近藤の本陣に土蔵が存在した」という証言があり、それに従ってモニュメントとして古い土蔵が移築されたと考えるのが妥当だと思われます。

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