貧困者を犯罪者とみなす刑罰国家の危険 - 憲法25条“生存権”軸の福祉国家へ(内橋克人×湯浅誠) | すくらむ

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 3日に放送されたNHK教育テレビのETV特集「いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠~」を見ました。


 その中で、印象に残った内橋さんの言葉は、「19世紀における貧困への対応は、救貧思想に基づき、ワーカーズハウスという一種の強制収容所で、貧困当事者に強制労働をやらせるというものだった。貧困当事者に対して、怠惰だから、怠け者だから貧困になるんだといって、強制労働をさせた。それに対し、社会的な批判が巻き起り、貧困は個人の怠惰などが問題ではなく社会構造のひずみがもたらしたもので、貧困が生まれるのは社会全体の問題だという考え方が20世紀に入って強くなっていった。日本において、貧困を自己責任、個人の責任として、19世紀へ戻るような懲罰的な対応の仕方をやっていくとどうなるか。貧困のあとにやってくるのは監獄社会だ。ルールを厳しくして、少しでもルールからはずれると厳罰主義により監獄に送り込むという形で、貧困は排除すればいいという社会が生まれる。そうなってしまうと、社会的には大きなマイナスをもたらす。社会的費用の負担はもっともっと大きくなる。そういう道ではなく、憲法25条の“生存権”を、国を作り直す原点にして、日本型の福祉国家づくりに向けて努力すべきだ」と語っていたところです。


 そして、とても考えさせられた、湯浅さんの言葉は以下です。


 (VTRでこの間の派遣村の取り組みが紹介された後)派遣切りにあった人たちなどは、大企業に、いいように使われて、いいように捨てられて、もうどうにもならなくなるところまで追い込まれて、それでも「お前は努力が足らない」「工夫が足りない」「能力がない」と、さらに自己責任論でたたかれる。いまの日本は、“人間をつぶしていく社会”ではないかと感じている。憲法25条の「生存権」というのは、過去に貧困を自己責任にしてしまっていたことの反省の上に立って、生まれてきたはずだが、いまの日本は、生存権を守るのが難しい社会だと感じている。


 新自由主義は、効率優先というが、じつは現実には非効率な考え方ではないかと思っている。新自由主義の考え方は、「人間の生存コスト」を忘れている非効率なものだ。ダメな奴は捨てればいい、使えない奴は放り出せばいい、そうやって、どんどん厳しくしていけば、効率的になるんだと新自由主義はやってきたが、もっとも大事なことは、人間はモノじゃないので、捨てられた人たちも生きていくという問題だ。本来なら、働き続けて、家族を持ち、社会に貢献し、これからの社会を引っ張っていく存在になるはずだった人たちに対して、その道を全部つぶして、コストの受け手としか生きていけないような道に追い込んでいっているのが現実だ。だから、現実を見ると、新自由主義は、本当はものすごく非効率なことをやっているのではないか。


 年越し派遣村へのバッシングがあるように、ああいうふうに住むところを失い、食べることもできなくなった人たちは「努力が足らなかったせいだ」と主張する人たちが今後もいなくなることはないと思う。一方で、自己責任ではなくて、社会に問題がある、社会のセーフティーネットを改善すべきだ、と考える人たちがいる。たぶん、この二つの考え方の“綱引き”はずっと続くだろう。


 いま、雇用保険と生活保護の手前に第2のセーフティーネットをつくらなければいけないという話になっているが、それがアメリカ型になっていくと、結局、生活保護から人を排除し、劣悪な労働を懲罰的に強制するものとなってしまう危険がある。アメリカではワークフェア、ワークファーストモデルと呼ばれ、社会保障給付をする人に就労義務を課す政策が打たれ、福祉的な受給を得るためには、仕事をしなければいけないとされる。この仕事というのが、最低賃金以下の劣悪な仕事で、アメリカ大企業の下請けの下請けの下請け労働だ。ここから受け取れるアメリカのメッセージは、「貧困になることは罪だ」というものだ。「貧困は犯罪の温床だ」というレベルを超えて、「貧困になることは犯罪そのものだ」「貧困者は罰せられるべきものなんだ」という、そういうメッセージだ。日本の場合もそういうふうに転ぶ可能性があり、注意が必要だ。社会全体のあり方が変わらないまま、そこのセーフティーネットだけがはられていくと、今度は周りから「なんだあいつらだけが」という目がますます厳しくなっていくからだ。


 内橋さんも湯浅さんも貧困を放置したあとにやってくる「監獄社会」への注意を促しています。湯浅さんは、このブログでもお知らせしていますが「貧困と監獄 - 厳罰化を生む『すべり台社会』」をテーマとしたパネルディスカッション に、パネリストとして出演することになっています。この問題はそのときに深めたいと思いますが、若干情報を付け加えておきます。


 カリフォルニア大学のロイック・ヴァカン教授の著作『貧困という監獄 - グローバル化と刑罰国家の到来』(新曜社)には次のように書かれています。


 福祉国家の解体と労働市場の規制緩和--「小さな政府」への転換は、増大する貧困層を管理する厳しい刑罰政策なしには成り立たない。つまり、福祉の領域における「小さな政府」は「大きな監獄」なしには成立しえない。


 「割れ窓理論」に依拠した「ゼロ・トレランス」理論(※軽犯罪をも厳重に取り締まることで犯罪率が低下し、治安悪化を防ぐという考え方)とは、「目ざわりな貧困」を警察が監視し、司法が裁くことを正当化する手段にほかならない--ここでいう、「目ざわりな貧困」とは、人目につき、公共空間でトラブルの原因となったり、不快感を与えたりするような貧困を意味する。このような貧困が蔓延すると、市民は漠然とした不安をおぼえ、居心地が悪くなるという理由で、都市にふさわしくない目ざわりなものとして位置づけられるのである。「ゼロ・トレランス」理論の普及にともなって、犯罪に対して「戦争」や公共空間の「奪還」といった軍事的レトリックが多用されるようになった。そのため、いわゆる非行少年や野宿者、物乞い、その他の周縁化されている人々は、すべて外国からやってきた侵略者のように扱われるようになった。


 近年のアメリカ社会の下層には、社会保障制度(セーフティーネット)の欠陥を埋め合わせるために、ますます網の目の細かい警察と刑罰の監視網(ドラグ・ネット)が張り巡らされるようになった。福祉国家の意図的な縮小と、刑罰国家の拡大が不可分の関係にあるからである。


 アメリカのように囚人数が15年で3倍に増えたことは、他の民主主義国においては、前例がなく、類似する例さえも存在しない。囚人数の急増に関して、アメリカは他の先進国の追従を許さない。実際、アメリカの収監率はEU加盟国に比べ、30年前は1倍から3倍だったのが、1997年には6倍から12倍--人口10万人に対し囚人が650人近く--に跳ね上がった。(下表参照)


       ▼アメリカとEUにおける囚人数(1997年)

すくらむ-囚人数


 それから、『朝日新聞』(09.3/27夕刊)の「背景に格差・二大政党?世界で進む厳罰化」という記事には次のように書かれています。


 フィンランド国立司法研究所のタピオ・ラッピ=ゼッパーラ所長が、拘禁率が低い北欧諸国と他の欧米諸国を比較し、いくつかの要因との相関関係を検討した。20カ国の犯罪被害率や犯罪認知件数は、拘禁率とは相関性がなかった。厳しい処罰に犯罪の抑止効果は望めないのである。日本では近年、犯罪件数と拘禁率がともに上昇しているが、拘禁率の方が犯罪件数より先に上がっている。「厳罰化、先にありき」がわかる。


 一方、所得の不平等を表す「ジニ係数」と拘禁率には高い相関関係が見られた。特に所得格差が大きいイギリス、スペイン、ポルトガルでは、人口10万人あたりの収容者数は120人を超えている。格差が小さいフィンランド、スウェーデン、デンマークはいずれも80人以下だ。国内総生産(GDP)に占める福祉支出の割合や一人当たりの福祉給付額と拘禁率は反比例した。


 ゼッパーラ所長は「充実した福祉や所得の平等は、社会制度や他人への信頼感を高める。信頼の強い制度は、人を厳しく罰するような派手なジェスチャーを必要としない。国民の順法精神も高まる」と説明した。裏返せば「死刑」や「無期懲役」を乱発する社会は、不信感に満ちているともいえる。


 政治システムではアメリカ、イギリスなど二大政党制を採る国で拘禁率が高かった。ほどよい「落としどころ」への合意形成より、対決姿勢が重視され、国民は常に白か黒かの判断を迫られる。こうした社会では、刑罰も「死刑」かさもなくば「無罪」か、判断が極端になりがちだ、という。


 ハワイ大学のデビッド・ジョンソン教授は「日本はアジア諸国で唯一、拘禁率と死刑がセットで増加している」と指摘した。たしかに日本では、この10年間、所得格差が増大し、政治体制も着実に二大政党制に向かった。死刑増加の背景に、社会の変化に伴う他者への信頼感の衰えが潜んでいるとすれば、これほど恐ろしいことはない。


 (※ちょっと特異な部分に着目したエントリーになってしまいました。ブログ仲間のみどりさんが、きちんと内容にそって、「ETV特集『いま憲法25条“生存権”を考える』の感想」を書いてくださっていますので、ぜひ読んでみてください。→みどりさんのブログ「労働組合ってなにするところ?」の「ETV特集『いま憲法25条“生存権”を考える』の感想」  byノックオン)