皆さんは明るい曲調にどこか寂しげのある『ライダー』という曲をご存じだろうか?

いまさら?という感じですがこの曲は僕が個人的に大好きな曲なので、こうして文章としてネットに起こし、今まで知らなかったという人に少しでも見ていただきたいと思い書きました。
とても感動するエピソードです。細かく綴ったのでどうぞご覧ください。

※注※ この記事にでてくる方々と当ブログの管理人は一切関係ありません。
※引用元※「48現象」2007/11/09(ワニブックス)

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●ライダーとは?
「ライダー」とは1人のAKB48のファンである福原浩文さんのことである。
そしてAKB48の関わりから突然の死に至るまで記そうと思う。
文中での彼の呼称は「ライダー」で統一する。ただし、会話での呼称は発話者がどう呼んでいたかに準拠して記す。そして彼と学生時代からの友人であったYさん、AKBを通して知り合ったMさん、Oさんの3人が主な人物として登場する。

●ライダー、AKB48に出会う
ライダーが初めてAKBを見たのは2005年12月18日だと思われる。ライダーは劇場オープン初日から見ていた友人に誘われるが、彼は当初観ると好きになってしまうからという理由で観に行くのを渋っていた。
そんなとき、AKBがフジテレビで行われるイベントに出るということを聞きつけたその友人はライダーを誘った。
ライダーはそのイベントを観に行くとすぐに夢中になったと言う。
そしてライダーが劇場を初めて訪れたのは22日か23日であった。ライダーが一番最初に気になった人は、ファンの応援に真摯に答えてくれる印象を強く持った、渡邊志穂さんと駒谷仁美さんであった。
その理由として、例えばある日の出待ち(当初は出待ちが可能だった)で駒谷さんが車に乗った後、車越しにライダーのファンレターを手にとって見せたのだ。一方渡邊さんは車に乗るまでの間にタイミングを見計らい、「福原さんいつもありがとう」と声を掛けてくれた。
このようにライダーはファンを大事にする2人にとても感激していたという。
そしてなにより、この渡邊志穂さんと駒谷仁美さんが後に「ライダー」を歌うことになるのだ。

●それまでのライダー
ここで少し時間を遡り、AKB48に出会うまでのライダーについて語っておこうと思う。なぜなら彼とAKBにまつわるエピソードの背景を知る上で不可欠だからだ。
ライダーは1974年1月16日生まれ、アイドルファンとしての初めは「おニャン子クラブ」のファンになったことだった。中でも特に国生さゆりさんのファンで、彼の愛車は国生さんが乗っていたバイクと色違いであるほどだった。
高校時代は剣道部キャプテン、卒業後は指圧専門学校に通った。Yさんとはここで同じ学年になり、友人になった。ライダーのほうが1つ年下だったため、時には弟のようにYさんは思っていたという。そしてライダーが自分のことを「拙者」と呼び、挨拶に土下座をするのはこの頃からであった。
ライダーはバイクで全国に旅に出るのが趣味だった。ライダーハウスなどに泊り、時には野宿も辞さなかったという。何度かに分けて日本一周をしたこともある。ライダーは非常に人懐っこかったため旅先でいろんな人に出会い友達になってしまうことが多かった。
そんなライダーはおニャン子以降、ずっと目立ったアイドル活動はなかったが、丁度そのころAKB48との出会いがやってくることになったのだ。

●劇場でのコール
劇場でのライダーは、もっぱら上手(かみて)の立ち見エリアから見ることが多かった。それは「PARTYが始まるよ」公演で彼のイチ推しである渡邊志穂さんが上手側に来ることが多かったからだ。加えて駒谷仁美さんもその位置から良く見えたからであった。
ちなみに、初期は座席が全て埋まることのほうが珍しく、座ろうと思えば座れたし、現にライダーは座って見ていたこともある。だが、お客さんが増えるに従って、あえて立ち見席に行くようになる。それは、立ち見のほうがメンバーと目が合いやすく、手を振ったり自由度が高いからだ。そしてなにより「いつもの場所にいること」がやりやすかった。

●2人推しという悩み
ライダーは前述の通り、渡邊さんと駒谷さんを推していた。この「2推し」というのは珍しいのではないかと思う。ファンの中には複数推しという人もいるが、ライダーはそうではなくあくまでも「2人が対等のイチ推し」だった。このことは彼にまつわるいくつかのエピソードを生むことになる。
AKB48は現在とは違い、劇場オープン当初からファンとの交流の場をほとんど設けていなかった。
しかし2006年2月に発売した「桜の花びらたち」の購入者対象握手会から、次第にそういう機会が増えていった。そういうイベントの中には、誰か好きな人1人を選んで握手をする、といったものがありライダーは1人に絞れずに「どうしてもという時には渡邊さん」と決めていた。しかしその敷居は非常に高いものであった。
そして典型的だったのは2006年のバレンタインとホワイトデーのイベントのことだった。バレンタインの劇場公演は国生さゆりさんの「バレンタインデーキッス」をメンバーが歌うというサプライズがあり、ライダーは大喜びした。しかし公演が終わった後、ライダーを困惑に陥れる事態が起きた。それは劇場から出るときにお気に入りのメンバー「1人」からチョコを貰えるというものだった。ライダーは困惑しつつもその時には渡邊さんから貰ったのだった。
余談だが、そのことについてYさんが駒谷さんに話をふったところ。彼女は寂しそうな表情で「分かってますから」と返事をしたという。まだそのころのAKBはファン1人の存在意義はとても大きかった。
実はこのイベントは他の日にも同様に行われ、ライダーは別の日に駒谷さんからチョコを貰えることができ、結果的に両方の「イチ推し」から貰えたのでバレンタインは幸せに済んだのだった。
ところが、これがまた新たな悩みを生む。
ホワイトデーにはファンからメンバーに手紙やプレゼントを手渡しできるイベントが行われたが、これは1日限定のイベントであり相手は1人だけというものだった。このことにライダーは非常に悩み、時には「両方に渡せないならいっそのことどちらにも渡さないで劇場に行かないほうがいいのではないか」とも思っていた。ライダーは結局公演に行ったが、彼がどちらに渡したかはYさんもMさんも聞かなかった。それは駒谷さんと渡邊さんとライダーの間だけで分かっていれば良いと思ったからだ。
その後MVPの記念撮影で再び同様の悩みを抱えることになる。MVPとは劇場公演を100回見た人がメンバー全員と記念撮影ができるものだ。その際、ファンが指名した「イチ推し」の子が隣に座ってくれるのだが、ライダーは「どうしても1人を選ぶなら撮影はしません」と言い切った。
これについては劇場側が粋な計らいをした。もう時効ということで言い明かすが、ライダーだけの特例で渡邊さんと駒谷さんが彼の両脇に座ってくれたのだった。

●仕事とバッグと睡眠時間
劇場に毎日通うだけでも大変だが、しだいに人気が出てきたチームAの公演はチケットを取るのが容易ではなくなってきていた。チケットを買うために朝から並ばなければならなかったのである。(当初は抽選制ではなかった)
彼はまず、早朝に秋葉原にきて並び11時頃チケットを買い、夕方にまた秋葉原にきて19時~21時くらいまでの公演を見て、22時~23時くらいまでメンバーの出待ちをする、というのが通例で、これをほとんど毎日やっていた。一体ライダーはどうやって生活しているのだろうと思った人もいるだろう。実はライダーがいつも持っていたツーリング用の大きいバッグにその秘密が隠されていた。彼は指圧師でAKBのファン活動の合間に往診での仕事をしていた。そして仕事用の白衣や銭湯で汗を流すための道具など、身の回りの物を一式詰め込んでいたのだ。もちろんAKB関連のグッズも入っていた。
彼はそうやって23時くらいまで出待ちをしていたが、実はそれだけで1日が終わりではなかった。その後深夜遅くまで、時には早朝まで長電話をすることもあった。すると、ほどなく次の日のチケットを買うために家を出なければならない時間になってしまう。そんな風にライダーは2006年頃からほとんど寝る時間がなくなっていた。

●ライダーが劇場を去った日
2006年6月16日、この日はA公演が予定されいてメンバーの大江朝美さんの生誕祭も行われる予定だった。ライダーはいつものように朝から行列に並びチケットを買っていた。YさんとOさんは仕事の都合上チケットに間に合わなかったが、秋葉原に到着し3人でカフェのテーブルで雑談をしていた。この頃のチームAは12時過ぎまでならチケットを買えるが生誕祭の日はもっとはやく完売してしまうほどであったため、どんどん人気が出ていくAKBに若干テンションが下がり気味だった。
劇場カフェで雑談を終え、そろそろ飯でも食べに行こうという話になり、席を立とうとした時、ライダーだけ立ちあがりかけて頭をあげられない様子だった。「どうした?」と聞くと「めまいがするので飯はやめておく」と言う。最近こういうことがよくある、という彼の言葉でライダーを取り残し2人は飯に出かけた。軽く飯を食うはずがAKBトークがはずみ、気づけば2時間近く経っていた。
再び劇場に戻るとライダーの荷物だけが同じ場所にあった。彼の姿がなかったから少し待てば戻ってくるだろうと思ったがいっこうに戻ってくる気配がない。Yさんが探しに行き、劇場フロアの隅で倒れているライダーを発見した。ぐったりとしていたが意識はあり、吐き気を訴えていたので食中毒ではないかと楽観視していた。Yさんは目立たないようにライダーを背負い、ビルの外まで運び出しそこから車で病院に搬送しようかと悩んでいたが、ライダーが「救急車を呼んでください」と言ったことで救急車を要請したのだった。ほどなくして救急車がビルの下に到着し、ライダーをストレッチャーに乗せ、ファンで賑わう脇を通って運び出されていった。
まさか、それが劇場でみる彼の最後の姿になるなんて、その時誰が想像しただろうか。

●緊急手術と小康、そしてその後
病院に着いた後、検査により脳内出血の疑いがあると分かり、精密検査に入った。検査の結果、緊急手術が必要とのことになり手術が始まった。数時間後手術は無事終わり、当面の危機は免れたということで一安心した。
そこで、後日病院にお見舞いにいくとライダーはICUから出たばかりで辛そうであったが、意識ははっきりしていた。見舞代わりに渡邊さんの缶バッジを渡すとうれしそうにしていた。そんな彼の様子をみて胸をなでおろした。もちろん大きな病気ではあるが、この状態ならいずれ劇場に帰ってこれるだろうと思った。
ところが、23日にお見舞いにいくとライダーは人口呼吸器をつけてICUにいた。ご両親に話しを聞くと、19日に再び脳内出血がおこり、今度はかなりの重症だとのことだった。このことは劇場側に伝えておこうということになった。劇場側の動きは迅速で30日の夕方、戸賀崎氏がお見舞いに来てくれることになった。
30日の昼過ぎにはライダーはもう自発呼吸がない状態だった。しかし、ライダーのその顔は今にもむくっと起きだし、いつものようにAKBの話をし出すのではないかと思える寝顔のように見えた。
夕方には戸賀崎氏が駆け付け、2つの見舞い品を持参したという。1つは早く劇場に戻ってきてほしいという意味をこめて、日付の入っていないチケットを。もう1つは駒谷さんと渡邊さんのメッセージ入りのMDだった。MDを聞いたときのライダーはほんの少し、ほほ笑んだように見えたという。

7月1日 ライダーは静かにこの世を去った。32歳という若さであった。

●それでも私たちは公演を見る
ライダーの訃報が伝えられた友人たちはその日の公演を見るか迷った。しかし、こんな日だからこそ見るべきだと思った。
公演が始まり私たちは胸を裂かれる思いでみた。涙しながらステージを見ている私たちに、メンバーは心配そうな表情をしていた。メンバーはこの訃報を公演後に知らされたという。後に伝え聞いた話では、全員が泣き崩れる状態だったそうだ。
その後通夜が営まれ、ライダーの友人たちはもちろん参列した。そして戸賀崎氏も参列するという話は聞いていた。ところが、驚いたことに戸賀崎氏は渡邊さんと駒谷さんを連れて参列していた。通夜の後、Mさんたちが彼女らがタクシーに乗り込むときに声をかけたとき、大粒の涙を流していたという。
次の日の葬儀。前日の通夜に参列した友人たちはその場にいなかった。それは、彼らが劇場にいたからであった。
知らない人にとっては友人の葬儀よりアイドルの公演を優先するというのは非常識に思えるだろう。しかし、そんな日でも公演を見ることこそ、ライダーへの何よりの弔いだと思っていた。

●その後の「ライダー」
普通なら亡くなった人の時はそこで止まり、もはやそれ以降のストーリーはない。
だが、ライダーをめぐるストーリーは新たな展開をみせる。まるで物語の第二章であるかのように・・・。
2006年8月19日チームAの3rdステージ「誰かのために」公演のゲネプロが行われた。この日の公演では最前列の中央1席はライダーのために空けてある旨が公式ブログで発表されていた。
そして、始まった新公演の中盤、7曲目のことだった。色とりどりの衣装をまとったメンバー7人が出てきて後から白い衣装をきた駒谷さんと渡邊さんが中央で歌い始めた。
もうそれだけで、その曲がどういう意味を持つ曲なのか私たちにはわかった。
明るい曲調と別れの寂しさをにじませるこの曲に涙があふれて仕方なかった。
曲が終わり、MCでその曲名が『ライダー』だと語られたとき、客席がどよめいた。
私たちは『ライダー』を聴くのが辛く、聴くたびに涙した。だが、メンバーが泣きながら歌うことは一度もなかった。
後に聞いた話によると、このA3rdのレッスン期間中、ユニットのメンバーはこの曲を泣きながら歌い、さらには「ダンスの鬼」とまで言われていた当時の振付師 夏まゆみ先生も涙をこらえきれずに、泣きながら教えていたそうだ。
ユニットではないメンバーもみんな絶対にライダーのレッスンの時は帰らずに、泣きながらその光景を見つめていたという。
公演中、メンバーはずっと笑顔で歌って踊っていたが、これまでには相当な努力があったのだと思う。
そして、2007年1月25日3rdステージ「誰かのために」公演は千秋楽を迎えた。私たちにとって3rdステージの期間中はゆっくりとライダーを弔って来た日々だったと言える。
ライダーが突然私たちの前から姿を消して7ヵ月、ようやく彼の弔いが終わったと思える瞬間であった。

●「ライダー」第三章へ
およそ4年の時を経てNMB48の1stステージ「誰かのために」公演で、このライダーは復活することになる。
そして復活するライダーを歌うNMBに当時の友人はこう語っている。
「あの頃のがむしゃらなAKBの歌を歌うのは感慨深い。彼女たちには過去の『ライダー』にとらわれず、現在の『ライダー』を作り上げてもらいたい」と。


世代を超え歌い継がれていく『ライダー』
あの明るく、どこか寂しげのある曲にはこのような背景があったのだ。