当時私は北海道から神奈川に移住して、派遣会社で働いていた。愛川町の工場から寮に帰る車を運転している時、ラジオで第一報を聞いた。

2012.9.1追記
Yomiuri Onlineより

日航機事故娘の証しを 悲しみの父、26年後「自分史」

12日で26年を迎える日航機墜落事故で、犠牲となった元日航社員の白井まり子さん(当時26歳)の父、 原忠臣さん(81)(埼玉県入間市)が今年、「自分史」を書き上げた。
事故直後の心境や経過を詳細に記述。「書くのはつらかったが、まり子の生きた証しになった」。原さんは、複雑な思いで書き上げた心情を吐露する。(石川貴章)  

「私の人生で一番長い日々」。原さんは事故当日をこう題した。  その日、自宅で缶ビールを飲みながら、テレビを見ていると、突然、テロップが流れた。「羽田発の日本航空 123便が消息を絶つ」。まり子さんが乗っている可能性が高いことが分かり、不安が極限まで募った。「何かの 間違いで乗っていなかったら、そして、まり子の顔を見たら『この親不孝者』と言いながら力いっぱい抱きしめたいなどと考えた」と回顧している。  

駆けつけた羽田空港で、乗客名簿に「シライマリコ」の文字を目にした瞬間を「何かの間違いであってほしい という希望も打ち砕かれた」と記した。まり子さんの遺体と対面したのは8月17日。「5日前の朝、元気に別 れたまり子に、こんな姿で対面するとは」と当時の様子を記している。  

同24日には遺品が見つかった。「恐い、恐い、恐い」などと書かれた遺書だ。「最後の悲痛な叫びを伝えよ うと必死で書いたことを思い、皆で泣いた」と悲しみをつづっている。