在特会について思想的な考察を行った人間はほとんどいない。
ましてや、哲学的なそれに関しては皆無だろう。

よってここでは余人に先駆けて、在特会の哲学的考察を試みてみたいと思う。


在特会とは何か?
まず、在特会は市民団体である。
在日特権の廃止を目標に設立された保守系の市民団体である。

他の保守団体とは違うその特色は何かと言えば、そのずば抜けたフットワークの軽さ、行動力であろう。
在特会は抗議対象の元に駆けつけて、直接に抗議活動を展開する。
日本国民としての「怒り」をダイレクトにぶつける。

他の大人しすぎる保守団体に比べれば、相対的に過激に見えるだろう。

それが在特会が色んなところ(他の保守団体も含めて)から、よく批判される大きな要因でもあろう。

在特会に対する批判としてよくあるのは、
「ヘイトスピーチだ」
「レイシズムだ」
「下品だ」
等である。

要は批判者にとっては在特会の活動は、過激すぎてその許容範囲を超えているのであろう。

「あいつら人間じゃない」という批判というか、悪口もよく目にする。

批判者の目には、過激すぎる行動が人間性に悖ると映るのであろう。

では、「人間性」「人間らしさ」とは何だろうか?

批判者の言う「人間性」あるいは他の保守団体の言う「日本人としての品位」という言葉の中には、戦後的な価値観が多分に含まれてはいないだろうか?


フリードリッヒ・ニーチェは、キリスト教的世界観や近代的価値観の欺瞞を暴露し、近代社会のニヒリズム性を暴き出した。

「すべては無価値であり、目的も意味も真理もない」というニヒリズム。
いずれそのニヒリズムによって現代社会が覆われることを予言した。

ニーチェの言によれば、そもそも世界とは固定して存在するものではなく、生成し流転するものである。
その意味や価値も固定して予め存在するものではなく、瞬間瞬間に人間が生み出していくものである。

だが、そのニヒリズムに凡人は耐えられない。
人間はどうしても意味や価値を求めてしまう生き物であり、無価値や無意味には耐えられない。

しかし、そのニヒリズムに打ち勝てる存在がいる、とニーチェは言う。

それが「超人」である。

力への意志によって、既存の価値観を破壊し、新しい世界を創り出していく存在。

虚無の奈落に脅える消極的ニヒリズムに対する、積極的に虚無に立ち向かい打ち勝つ能動的ニヒリズムである。

既存の価値観や世界観に埋没し、現代社会のニヒリズムに内部から毒され、腐敗していく凡人を超え出て、超人はニヒリズムに正面から立ち向かい、打ち勝ち、新しい世界を創り出す。


戦後的価値観や世界観とそれが呼寄せるニヒリズムに骨の髄まで毒されている人々にとって、在特会の行動は自分たちの信じ切っている既存の価値観を根底から揺さぶり、破壊するものに見えるであろう。

それは何故か?
彼らは何故、在特会に脅威を感じるのか?

それは彼らが力への意志を失い、消極的ニヒリズムにどっぷりと嵌まり込んでいるからである。

保守を自負する人士でされ、戦後的価値観の毒牙から自由であるとは断言できない。
「日本人の品位」という言葉の下に戦後的価値観を振りかざし、既存の戦後的世界を守ることに加担している。


かつて、政治活動家の野村秋介は、政治犯の懲役からの出所後にこのような発言をしている。

「檻の中に入っているのは俺じゃない、君たち大多数の日本人の方だ、戦後的価値観という牢獄の中に閉じ込められている」


既存の価値観を破壊する先駆者はいつの時代も、罵詈雑言と恐怖の対象である。

しかし、それに怯み、戦後的世界の中に留まり続け、奴隷の品位を後生大事に守り続けていては、新しい世界は永久に開けてこない。

だから、在特会は奴隷の群れから飛び出し、闘う。

戦後的世界を徹底的にぶち壊すために。