忍者とはこんな者たち(広義だと陰陽師なども入るかな)
「戦国時代」における 陰陽師 とは? http://bit.ly/up2Msf に結構面白い記事が出ている。
身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つと書かれている部分で前半部分が後半部分が陰陽師にかぶさるように思える。


近年 北斎や芭蕉が忍者ではなかったかと疑われている。
いろんな説があり 調べれば調べるほど奥が深くなっていくのが日本の歴史文化である。
それだけかけ離れているように見えるものでも何らかの形で一般庶民も関わっていたものだからではなかろうか。
色んな事を調べれば調べるほどルール正しい日本が見えてくる。


今でもアメリカのGHQの日本骨抜き作戦をしようとした日本に対する白人の恐怖心が見えてくるのは私だけかな。
縦糸と横糸でシッカリ編まれた大きな丈夫な布(歴史や習慣)を切り刻まないと彼らは眠れないのかも知れない。

あれだけ戦後教育で日本人を貶める教育をして来てもマダマダという感じで迫ってくる。

東北地震で見せた日本人の冷静沈着な行動力を見て。



●忍者(にんじゃ)とは、鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。http://bit.ly/vLrFK0

領主に仕える隠密行動を主体とする集団。戦国時代まで、忍者は地域的に集団化した特殊な階級であり、武士や足軽といった身分の集団とはまた別の立場にあった。

忍者、忍術は日本国内各地で集団を形成していた。
その中でも伊賀と甲賀は良く知られている。
忍者は上忍、中忍、下忍に身分が分かれており、上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配していた。
中忍は下忍達を率いる小頭(こがしら)である。甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされていた。
実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達だったと言われている。
中世にはどの村落も軍事力を備えていたが(江戸時代に武装を必要としない安定を見る(→兵農分離)までは、あらゆる階層が武装していた)、その軍事力は村落の自衛に用いられることもあり、また村落外の勢力に傭兵のように貸す場合もあった。
外から連れてきた子供を訓練することもあり、伊賀では脱走者(いわゆる抜け忍)は探し出して処罰したと言う。

忍者は様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具」、逃走術を含む種々の技術を「忍術」と呼ぶ。
忍術は密教、陰陽道や、修験道の行者が用いた術(九字護身法、山嶽兵法など)とも関係があるとされ、現代に伝わる古武術には忍術の名残りが見られるものもある。

『萬川集海』によると、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされる。
陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。
対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。
近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。

戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。
江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」などがある。

●くノ一について http://bit.ly/szrwZy
女性の忍者も存在していた。
彼女たちのことを「くノ一(くのいち)」(“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現)とする表現が一般的である。
異説として鼻、目、耳、へそ、肛門などの人体にある九つの穴(鼻は一つの穴と数える)に加え、女性は穴が一つ多いことから「九の一(くのいち)」として呼んだという説も存在する。
しかし穴の数え方が資料によってまちまちのため(例えば、へそではなく尿口を数えるなど)の説もあり、信憑性は今ひとつである。
また「くのいち」という呼び方自体が山田風太郎の創作とする説もある。
「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するが、忍者を題材にした映像作品や漫画作品などで登場するような女忍者は存在しなかったとも言われる。
しかし女忍者が女中になりすまし城に潜入したという記述も残っており、女中達の「女の噂好き」を利用した諜報活動でかなりの功績をあげていたとされる。
また史実に登場するくノ一で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団がある。
詳細はくノ一の項が詳しい。

●黒装束について
「全身墨染めの黒装束」「その中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っている」「背中に刀」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」という印象で描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。
現存する「忍び装束」とされる物も、ほとんどが柿色系統である。
黒色よりも柿色の方が安価に製造できたからとする説もある。
この衣装は、元々は甲賀地方(現在の滋賀県南東部)や伊賀地方(現在の三重県西部)で使われていた山着、野良着が元とする説がある。
また、その状況に合った服装(町中では町人の格好、屋敷などに侵入する場合には使用人の格好など)、すなわち変装を用いており、特に虚無僧・出家・山伏・商人・放下師(ほうかし、大道芸人、奇術師)・猿楽・常の形(つねのなり、武士や農民)の七つは「七方出の術(七化)」と呼ばれる。
また、「専用の」装束などを着用することは稀で、黒装束については、歌舞伎などに登場させる際に黒子のように観客に対して「見えない存在であること」を表現したものが後に、現実にもそのような格好で活動していたと誤認されたとする説もある。
戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は重い鎖帷子は着用しない。
漫画表現では、鎖帷子を簡略に描いたことから、網シャツのようなものを着たキャラクターデザインに発展した。
背中に刀を背負うと動くとき邪魔になるため、通常は普通の武士のように腰に下げるが、床下などに潜むときは狭い所でも動き易くするため、また刀自体を盾代わりとするために背負った。

・歴史
・発祥と変遷
広義の忍者、忍術の起源は人類の歴史とともに古く遡ることができる。
その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。
『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。
飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる。

・狭義の忍者、忍術は源平時代以後に日本で発祥したものである。
忍者、忍術は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。
文献上にその名が見られる忍術流派は71流を数え、伝書及び資料の確認される流派は31流とする説がある。
中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。
これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる。甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園で木材の供給地だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。
各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。

文献上の初見は1487年の足利義尚幕府軍対六角氏・甲賀・伊賀連合軍の戦いといわれる。
特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという。

なお、戦国時代には、伊賀・甲賀組や紀州根来衆の他に甲斐武田氏の透破、越後上杉氏の鳶加当他、相模北条氏の風間党、奥州伊達氏の黒脛巾組、加賀本願寺の修験、伊勢長島、出雲尼子氏の鉢屋一党など各地方諸文献に草等の忍者らしき記載が有る。

・大久保忠教の三河物語の記述
徳川家康が桶狭間の戦い後に今川氏から独立し、三河国奪還戦争のさなか、蒲郡市にある鵜殿長持の西之郡城(上ノ郷城)を忍で取る、と記載されている。
寛文7年(1667年)の近江国甲賀武士が奉行に差し出した書状には、甲賀21家が援軍として駆け付け、夜襲・焼き討ちにより、鵜殿藤太郎の首を討ち取った武功について記載。
伊賀ではなく、甲賀であることも注目される。

・服部氏伝説
昭和37年(1962年)、伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。
すなわち、観阿弥は楠木正成の甥だったことになる。根拠は特にないが、偽系図などと呼ばれている。
観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していた。

伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。
外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。
改めて敵の一部を調略してから、信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けた(第二次天正伊賀の乱)。百地丹波以下100名が紀州の根来へと落ち延びたと言われる。

・徳川幕藩体制下
伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。
中でも服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。
彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。
御庭番は忍者と同様に思われがちだが、誤りであり八代将軍・徳川吉宗が紀州から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、彼ら御庭番は忍者とはかかわりがない。

江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師・松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方の出身者だった。
そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、小説などでも題材に扱われている。
その根拠として、芭蕉の著書奥の細道の記録どおりに旅行したとすると、一日数十キロ歩かなくてはいけない計算になり、普通の47歳ならば体力的に相当無理がある、などがあげられる。
当時の江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎も公儀隠密説が囁かれている。
これらの説には決定的な根拠はなく、現状では単なる想像の範疇を出ない。

江戸時代の探検家・間宮林蔵は、幕府の隠密であり、広義には彼も忍者だと言える。
少なくともシーボルト事件において高橋景保を売ったという彼の行動は儒教道徳的観点から非難され、冷酷な忍者ならではの行動であると評された。

マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、幕府の隠密が早速調査のために行動しており、これがいわゆる忍者の活動の最後だった。

・明治後の忍者
その後明治になり、徳川幕府から明治新政府へ政権が移ると、警察、日本陸軍、日本海軍が創設され、忍者(江戸時代には隠密、同心、御庭番などの武士)もその役目を終えることになった。
活躍できる場を失った彼らはその後、警察関係(警察官)の職業など、新たな職に就いた。

明治末期~大正年間には立川文庫の作家たちによって、猿飛佐助、霧隠才蔵など忍者ものが創作され人気を博した。
映画のトリックで忍術が描かれ、また、戦後の1950年代後半より、小説や時代劇、劇画などに忍者が多く取り上げられるようになり、忍者は再び日本人の間で広く認知されるようになった。
また日本以外でも「ニンジャ」を使った作品は存在し、アメコミとして登場し後にアニメ化された『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』はあり、ゲーム『ウィザードリィ』シリーズでは職業として忍者が登場しており、いずれも日本でも放映、売買されている。