●大東亜戦争

テーマ:
●大東亜戦争
◆だいとうあ-せんそう 【大東亜戦争】
太平洋戦争をいう当時の日本側での呼称。
 
◆【大東亜戦争】(だいとうあせんそう) 航空軍事用語辞典++
太平洋戦争の日本での(本来の)呼び名。
植民地として欧米に搾取され続けていたアジアを開放し、独立させる事を名目とした。
詳しくは太平洋戦争項を参照。
戦勝国となった英米はアジアでの植民地を次々と失い、アジアの各国は独立を迎えていることから、日本は「名目上」において、戦略的勝利を収めたと言えるやもしれない。
関連:第二次世界大戦
 
◆大東亜戦争 
http://p.tl/upZL (だいとうあせんそう、旧字体: 大東亞戰爭、英: Great East Asia War)
大日本帝国とアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦・中華民国などの連合国との間に発生した戦争に対する呼称で、1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定された。
敗戦後は、GHQによって「軍国主義」と関連があるとされ「大東亜戦争」の使用が禁止され、代わりに「太平洋戦争」という戦争呼称を用いるよう規制された(のち失効)。
歴史学、歴史認識問題などではこの呼称については議論が多数なされた。
 
◆支那事変(しなじへん)
http://p.tl/DBfO
1937年(昭和12年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。
「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称である[1]が、現在は太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後も含めて日中戦争とも呼ばれる。
 
◆ABCD包囲網 
http://p.tl/zatH (エービーシーディーほういもう、ABCD encirclement)
1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)の頭文字を並べたものである。
ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれる。この呼称は日本の新聞が用いたものとされるが、初出については良く分かっていない。
 
◆ハルノート [Hull Note]
太平洋戦争直前の1941年11月26日における日米交渉で、アメリカ国務長官 C =ハルによってなされた提案。日本の中国およびインドシナからの全面撤退、中華民国国民政府以外のいかなる政権をも認めないなど、アジアの状態を満州事変前に戻せという内容。日本側はこれをアメリカの最後通告とみなし、一二月一日開戦を決定した。
 
◆【ハル・ノート】(はる・のーと) 航空軍事用語辞典++
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の日米交渉で、1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書のこと。
 
正式には「アメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(日米協定基礎概要案)」と称する。
日米交渉でのアメリカ側当事者、コーデル・ハル国務長官の名前から「ハル・ノート」と呼ばれる。
 
1941年11月20日に日本から提示された日本側の国交調整最終案「乙案」を拒否する回答として、日本時間27日に提示された。
 
その内容は「日本の中国及び仏印からの撤兵」、「中国において、重慶を首都とする国民政府以外の政権を認めないこと」など、日本にとって酷な要求を突きつけた交渉文書だった。
結果、これにより日米交渉は打ち切られ、1941年12月1日の御前会議で対米英蘭開戦を決定した。
 
◆ハル・ノート(Hull note)
http://p.tl/XHns
太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。
正式にはアメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)と称する。交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。
 
ハル・ノートは、日米交渉におけるアメリカ側の事実上の最後通牒(最後通告)であると言及されることがあるが、文書の上では最後通牒として必要な交渉期限の記述は存在せず、あるいは平和的交渉の打ち切りを予告する記述も存在していない。冒頭部には極秘、暫定かつ拘束力が無い旨の注釈がつけられており、アメリカ政府としての公式提案ではない。
 
また、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、ハル・ノート提示後にも昭和天皇に宛てて、事態の平和的解決を呼びかける親電を発しており、アメリカ側から交渉を打ち切る意図があったことも確認されていない(親電については#ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電について)。
 
しかし、この文書が日米交渉の最終局面で手交されたもので、日本側の案(乙案)の拒否と同時に提示されたこと、かつ内容が日本側にとって受け入れがたいものであったため、その点をもって「”事実上の”最後通牒であった」とする解釈がある。後述の#日本側の反応にある通り、当時の日本ではハル・ノートをそのように解釈した一面がある。
 
◆大東亜戦争とは何だったのか
http://p.tl/N8UE