佐川官兵衛 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

佐川官兵衞、諱は直淸、小字は勝、天保二年九月五日、陸奧會津若松城五軒町に生る。世々會津藩の要職に補せらる。官兵衞文武の道を修め、殊に馬術と劍術とに勝れ、又、勇悍を以て聽ゆ。藩主の京都守護職となりて上洛するや、官兵衞、陣將隊士の上席として京に入り、物頭より累進して學校奉行に任ず。又。別選隊長となる。明治戊辰の役、伏見鳥羽に於て勇戰して人目を驚かしめ、越後長岡の救援に馳せて、健鬪よく官軍に抗した。若松城包圍せられて、孤城落日の觀ある時も、官兵衞單り城外に留つて、屢々官軍を惱まし、闔藩降伏の後漸くにして兵を收めた。明治十年の西南役には、一等大警部として從軍し、豐後口に向ひ、坂梨に於て戰死した。四十七歲。
 官兵衞、一に鬼官兵衞といはる、其驍勇以て知るに足る。戰鬪に臨んで勁勇なるのみならず、平常と雖も、剛氣悍勇、誠に鬼の名に恥ぢぬものかあつた。下層の者は其勇猛を知つて、鬼の名の綽號なる事を知らずして、常に鬼官兵衞樣といひ習はしてゐたものもあつた。
 會津藩は由來尙武の藩であり、時々、城東大野原に於て追鳥狩を行ふ。陣伍堂々、藩公親しく之れを率ゐ、大演習をして、鳥獸を捕獲せしめらる。此故に演習ある每に士氣振ひ、騎馬なき者は馬を購ひて此名譽に列せんと勉める。
 官兵衞少壯にして、之れに從ひ、馬を馳せて鳥を追ふ。一鞭鳥を擊つて斃し、之れを取らんとして、馬を停め、步行して還る間に、太田某なる者が、素早く拾ひ取りておのが物にしやうとした。官兵衞怒つて、劍を按じて某を詰ると、鳥を扮てゝ走つた。後に某は、官兵衞が恐喝して吾獲物を奪つたと訴へた。官兵衞陳辯よく事理を盡したから、事なきを得たが、官兵衞の强勇を知る者、其時の怒勢を想像して、鬼の綽號は其頃から萌しかけたのであつた。
 官兵衞、江戶勤務となり、隊を率ゐて江戶に來た。偶本鄕に火災があつた。公命によりて、官兵衞、加賀藩邸を訪ふ。乃ち弟又三郞、藩士黑河內友次郞等を隨へて、馬を奔らして加賀邸に向ふ。途中、幕府の消防夫等と遭遇した。消防夫等は幕府の威を借りて、官兵衞等の行進を遮つた。官兵衞は之れを事ともせす、其儘驅けて加賀邸に至り、使命を果して歸途に就いた。
 先に遮つた徒輩は、之れを以て防火線を强ひて亂したものとして。凶器を揮つて、官兵衞等に襲擊しかゝつた。官兵衞等之れを邀へて鬪ひ。殊に官兵衞は馬上より、敵手の指揮者なる騎馬の士を斫り倒し、又三郞等もよく防ぎ鬪び、隊を收めて歸るを得た。偶一兵卒の捕獲せらるるものがあつて、其者から會津藩の佐川官兵衞たる事が分明となり、町奉行より藩邸に照會する處があつた。
 其情報に曰く、旗下乘馬の士に傷つくものがあり、消防夫の死傷せるものもあり、是等は皆幕府附屬の輩であると。當時の習例によると、かゝる鬪爭によつて死傷した者は、其家名を除去せらるゝと同時に、其加害者も亦重き刑に處せらるゝのであつた。藩主憂ひて、有司を遣はして、幕吏に對して穩便に處する事を請求すると共に、深く事實を窮問する事をやめ、官兵衞を國に還へして謹愼を守らせしめた。
 官兵衞の祖父亦兵衞に之れと同軏の事實があつた。曾つて亦兵衞、江戶に居る時、麴町に大火があつた。公命をうけて火災地に行く途に、同じく幕府の消防夫と紛爭を惹き起し、敵に死傷を出さしめた。其際、亦兵衞は隊伍を整へて、其消防役所に行き、重役に會うて內濟を請うた。重役之れを拒むと、亦兵衞再び繰返して請ふ。彼れ再び拒む。則ち亦兵衞態度を嚴肅にし厲聲一番して曰く、三度其內濟を請ふが、これでも許さぬかと。其壓力のはげしきに怖れて、遂に重役は唯々として官うた。官兵衞の今回の擧は殆んど祖父亦兵衞に類したから、會津藩では、此祖父にして此孫ありと稱して、官兵衞の勇猛なるに益目を聳てた。
 文久年間、會津藩主容保、京都守護職に任ぜられ、藩士を率ゐて上洛した。時に京畿の間風雲暗憺たるものがあつて、守護職の任は甚だ重いものであつた。元治元年の禁闕の變以來、都下は益騷然として、更に警護の隊の充實を要した。乃ち藩士の子弟で武術優秀の者を選んで別選隊を編成したが、其隊長を得るに苦しんだ。重臣皆曰く、官兵衞の驍勇を之れに用ゐやうと官兵衞是れによつて別選隊長となり、又別に學校書生を以て書生組を組織して、之れも亦官兵衞門の統率の下に置いた。
 官兵衞、年壯にして剛直、膽略がある。部下はよく之れに心服し、威望は藩の內外に聞へた古武士の心髓を得たるが如き官兵衞は、洋式の練兵を好まずして、隊士亦會津藩特有の武術を硏究し、まことに純乎たる日本武士の團結であつた。
 慶應三年、將軍慶喜、大政を奉還して二條城に恭順した。官兵衞、別選隊書生組を率ゐて城中に入り、玄關の左右に幕營して警護に任に當つた。朝廷、德川氏を倒さんとして、新に長州兵の入京を許され。長藩士意氣揚々として兵器を携へて京都に來た。薩兵亦是れと提携して頻りに幕府を侮る。會桑其他の幕府加擔者は之れを見て憤慨措く能はぬ。
 官兵衞の弟又四郞及び常盤次郞、市中を巡邏して、守護職屋敷に至つたが。薩兵八名、窓から首を伸して屋內をのぞく。又四郞之れを制すると、却つて我に向つて攻擊し來つたから、又四郞等鬪うて敵二名を殺し、四名を傷つけた。又四郞、次郞共に重傷を負ひ、又四郞は邸內に入つて絕命した。官兵衞急を聞いて馳せ來り、又四郞の死屍の頰を撫でゝ、汝まさに忠死した我れ早晚其跡を追ふべしとて、血淚滂沱たるものがあつた。
 側の人々皆悲憤して、薩邸に火を放つて、此怨恨を晴さんとたける。官兵衞誡めて、私の事を以て公に及ぼすは非である、暫らく我爲に待てと慰撫した。
 還つて曰く、薩長の在京兵は我に比して少いから、其軍勢の增大せぬ內に、明日を期して掩擊して之れを屠り、君側の奸を掃はんと議した。幕府新撰組の近藤勇亦之れに贊同して、正に暴發せんとする時。慶喜は會桑及他の諸侯を從へて、大阪に退いたから、官兵衞、君上の恭順に反して、都下を騷がすは臣子の道でないと思惟し、空しく遺恨をのんで、部下と其に大阪に下つた。
 慶應四年(明治戊辰)正月、慶喜は會桑二藩を先鋒として、京都に入らんと鳥羽伏見兩道から進んだ。官軍の兵之れを拒んで戰端は開かれ、城南地方は砲煙の覆ふ處となつた。
 官兵衞、部下を率ゐて伏見肥後橋より進んだ。袴を穿ち、冑を殺り、其上に羽織にて被ひ、鉢金で額をまき、腰に采を挾んで、衆を指揮し。戰鬪酣となるや、刀鎗を以て敵の中堅を突かしめ、勇姿颯爽として四邊に輝くものがあつた。
 已にして吾後方に於て火熖上り、前後進退に苦しむ事になつた。衆曰く、退いて肥後橋を守るべしと。官兵衞日く、軍目付の意見は如何あるかと。軍目付佐藤某曰く、退いて戰ふがよからう。官兵衞乃ち、軍日付の意見此の如くんば、之れに從ふべきのみと謂うて、自ら殿軍して隊を退却せしめた。其擧止の沈着なる、官兵衞にして始めて爲し得る處と賞贊せられた。
 戰鬪は正月三日より六日に及ぶ。官兵衞連日連戰、常に刀鎗の隊を以て敵中に突貫して之れを敗り、鬼官兵衞の驍名は遂に頭角を現はした。每戰進んで必らず陣頭に起ち、頗る異色がある。五日の激戰には、淀川堤上に於て、銃丸雨下する間に部下を指揮してゐた。敵彈、刀に觸れ、刀は折れ、脇差を拔いて更に叱咤し、隊を擧げて敵中に突貫せしめた。彈丸飛來、官兵衞の面を擊ちて右眼を傷けたか、失明に至らぬから、勇を鼓して鬪ひを續けた。慶喜之れを聽いて大に賞嘆し、自署の書を與へて伏見口軍事委任を命じた。
 此役に於て、官兵衞の部下の死傷する者多く、隊員の三分の二を失うて了うた。以て如何に其戰鬪の激烈であつたかを知るに足る。倂も精銳の刀槍隊は世に會津の勁武を示すと共に、鬼官兵衞の號もこゝに於て全く確定せられたのであつた。而も此時官兵衞は始めて西洋の戰器の利なる事を知つて、今後の戰爭は泰西の利器に限るというた。
 伏見鳥羽に敗れて、會兵東還し、錦旗江戶に飜つて關東は官軍の席捲する處となつた。朝廷別に北越征討の兵を發した。時に官兵衞、君命を奉じて越後長岡の救援に向つた。
 長岡藩の總裁河井繼之助と相議して、共に官軍を逆へて戰ひ、長岡城を奪はれ、陣地を移して、杉澤村に苦戰した。其退却に臨み、官兵衞は我戰死者三宅九八郞の帽を取つて逆に冠つて去つた。部下の士之れを指して、隊長の帽は倒しまであるいふと、官兵衞笑うて、畢竟敵にうしろを見せぬためのであると謂うた。
 官兵衞、繼之助と謀り、奇襲して長岡城を奪還したけれど、官軍の銳は愈加はつて、新發田藩亦內應して官軍を導き、水原、新潟等を略取したから、吾前後を包圍せられた形勢となり、止むなく軍隊を還へさうとした。時に會津藩に於ては、白河ロから官軍の爲に壓迫せられて、甚だ危險になつたゝめ。藩主は官兵衞を若年寄となし、速に若松に歸るやうにと命じて來たから、八月九日、官兵衞若松に歸來した。
 越後の役に於て、又もや鬼官兵衞の聲名は顯著になつた。時人、河井繼之助と、桑名の立見鑑三郞と、米澤の千坂太郞左衞門と、鬼官兵衞とを竝稱して四天王と呼びならひ、仰いで是等を敬視した。
 官兵衞の若松に皈るや、藩主は家老に任じ、防戰の事を司らしめた。
 八月二十一日、石莚方面の吾軍敗れて、官軍猪苗代に入り、會津は驚愕の度を增して來る。然るに藩士の各部除は皆出でゝ國境を守つてゐるから、城中には僅小の兵しかなかつた。卽ち農商民から募集した敢忠組と、白虎隊の一部隊とがあるのみであつた。
 官軍次第に進擊し來つて城は包圍の狀態となり、漸く累卵の危うきに瀕して來た。官軍更に小田山を占領して、城中を瞰射するから、城中の死傷は相續いて出で、落城は最早時間の問題となつて來た。之れに加ふるに城外の倉庫燒けて、糧食の乏しきを吿げかけてゐる。
 之れに處するには、先づ城下の敵を攘うて、糧食運輸の途を開く事が最も肝要となり、官兵衞は進んで其大任を引受けて、城中の精兵一千を率ゐ、敢然死鬪する事になつた。
 時に藩主は手づから帶ぶる處の名刀を官兵衞に賜ひ、其行を盛んならしめた。官兵衞感激して、我れ城下の敵を掃攘せぬ間は、一步と雖も城內に足を踏入れぬと誓ふた。爾來丈夫の誓約を堅く守つて、それよりは官兵衞城外にのみ轉戰惡鬪して、途に降伏落城の際に至る迄、未だ曾つて一寸も城內の土を踏まなかつた。
 八月二十九日、拂曉、兵を勒して城を出てゝより、官兵衞の勇戰は會津戰史上最も壯烈を極むるものであつた。數次敵を破つて、鬼官兵衞の威名は歷然として輝き、殊に長命寺の戰たるや、最も激烈を極はめたもので、之れがため西方の敵兵を掃ひ、城中に糧食の道を通ぜしめたのであつた。
 官兵衞の父幸右衞門、老齡尙奮つて鬪ひ、彈丸を蒙る事三つ、腹部を貫き、右手をうたれ、足を傷つけて、遂に城中に入りて歿した。母原田氏は、家を出でゝ城に入らんとする際、敵兵二名之れを追うを、某氏の門に避けて、懷劍を拔き放ちて、一兵を抱いて刺し、一兵を走らしめた。
 官兵衞の城外戰の目覺ましさは、實に神出鬼沒の奇襲をくり返へし、時には官軍の兵器衣類糧食を鹵獲して城內に運ばしめて、吾志氣を振はした事もある。倂し大厦の覆らんとするに當つて、一木のよく支うる事ができぬ如く、官兵衞の健鬪も時運を回らすには力が足らぬ。若松城は急迫して茲に淚を嚥んで軍門に降るの止むなきに至つた。
 官兵衞飽く迄降伏を斥け、單り大內村に在つて依然として官軍に杭しつゞけてゐたが、藩主は之れを憂ひて、特に使を派して懇ろに諭す所があつた。官兵衞乃ち命を奉じて、一軍を擧げて鹽川に至り、謹愼の意を表した。
 明治六年、征韓論起り、參議西鄕隆盛等職を辭して鄕里に還り、天下騷然として、朝廷大に憂ふ。翌七年川路大警視朝命を奉じて、東京守衞の巡査を舊會津藩に募つた事があつた。其募りに應じて集まるや否やは、一にかゝつて官兵衞の諾否にあつたのである。從つて官兵衞其取捨に惱み苦しんで躊躇してゐたが、使者の之れを促がす事急なるばかりでなく、舊藩士の窮乏を吿げて哀願するに切なるものがあつたから、遂に意を決して、官の募りに應ずる事となり。舊藩の子弟三百を隨へて、官兵衞は東京に上つた。しかし漸くにして大警部の職についたのみであるが、官兵衞、毫も不平の色を現はさず、よく其任務を盡くしてゐた。
 明治十年、薩軍大擧して熊本城を圍む、其勢威猖獗で、官軍急派之れを擊破せんとして、鎭臺兵の外に東京警衞の警視巡査を以て別隊を編成して、九州に赴かしめた。官兵衞其選にあたつて征途に就いた。
 官兵衞、檜垣直枝に從うて、豐後口に向つた。三月十七日、巡査五百を率ゐ、坂梨を發して一擧賊壘を拔いて熊本城に達せんと進軍した。輕裝、警視局の徽號ある指揮旗と、名刀正宗に佐川官兵衞と鐫銘したるとを携へるのみで、猪突奮進した。戰ひ熟して、銃丸の爲に左腕を貫かる。乃ち手拭をとつて自ら繃帶を施し、再び起つて巡査を指揮した。又もや、飛彈胸部をうち倂せて前額に命中した。鬼官兵衞遂にこの戰場に斃れた。

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