●   六 (ロク)(ろく)
★6 - Wikipedia   http://p.tl/zFFk
英語でsix(シックス)、ラテン語でsex(セクス)。なお、紙片や球体などに印字される場合、9との混同を避けるために「6」のように下線を引いて区別されることがある。
★六曜(ろくよう・りくよう)http://p.tl/Tiz1
六曜(ろくよう・りくよう)は、暦注の一つで、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種をいう。
日本では、暦の中でも有名な暦注の一つで、一般のカレンダーや手帳にも記載されていることが多い。今日の日本においても影響力があり、「結婚式は大安がよい」「葬式は友引を避ける」など、主に冠婚葬祭などの儀式と結びついて使用されている。
六輝(ろっき)や宿曜(すくよう)ともいうが、これは七曜との混同を避けるために、明治以後に作られた名称である。
★七曜(しちよう)http://p.tl/GAAs
肉眼で見える惑星の火星・水星・木星・金星・土星と、太陽・月を合わせた7つの天体のことである。
七曜星とも言う。
★週(しゅう)とは、7日を1周期とする時間の単位である。http://p.tl/AjYP
7日のそれぞれは曜日と呼ばれ、日本語ではそれぞれ七曜の名を冠して月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日と呼ばれる。
★曜日(ようび)http://p.tl/EVsf
本来七曜(7つの天体)が守護するとされる日のことをいい、曜日が循環する7日の組の事を週と呼ぶ。
日本語では現在でも各曜日を、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日のように七曜の名を冠して呼ぶが、地域によっては、後に曜日の名に番号、土着の神、イベント等が当て嵌められ、七曜との関係は忘れられている。これについては後述の「各国語での曜日の名称」を参照。
★日本の週間一覧(にほんのしゅうかんいちらん)は、日本において○○週間と呼ばれるものを一覧にしたものである。http://p.tl/gbxb
主に、官公庁が所管の一定の施策を集中して推進・啓発するために設けている場合が多い。
月毎に、日付順に列記している。 本一覧から除外しているものは、次のとおりである。
個人的なもの。
ごく一地方でのみ有効となるもの。
企業や業界団体などが商品の販売目的で制定したような「週間」のうち、単発で終わっているものや、事実上利用されていないもの。
期間が1ヶ月以上のもの。(→日本の月間一覧)
★365日では日と暦に関するページへのメタリンクを示す。http://p.tl/az5h
★その他   http://p.tl/l5Ql
・西向く侍(にしむくさむらい)→ 二四六九士 から、ひと月の日数が31日以外の月名(小の月)をまとめたもの。士は漢字を分けると「十」と「一」になるため、11月を表している。江戸時代、大小暦によって広められたものの一つといわれる。また、11が2本の刀を現しているともいるともされる。
・三十日は九月(Thirty days hath September)→ 英語圏における、小の月を覚えるための詩(文章)
★旬(じゅん)、假(け/か)旬 (単位)  http://p.tl/P-qq
旬(じゅん)は、時間の単位の1つで、10日間のことである。旬間(じゅんかん)ともいう。
概説 [編集]1つの月を3つに分けた期間のことも「旬」と呼び、1日から10日までを上旬(じょうじゅん、初旬(しょじゅん)とも)、11日から20日までを中旬(ちゅうじゅん)、21日から月末までを下旬(げじゅん)という。上旬・中旬は10日間であるが、下旬は月によって変わり、旧暦(中国暦や和暦)では9日間または10日間、新暦(グレゴリオ暦)では原則として10日間か11日間で2月のみ8日間か9日間である。
「旬」という単位は中国の夏朝には既に存在しており、甲骨文に「旬間」の文字が見える。旬の起源は、古代に十干で日を表していたことによるものと考えられる。
これを転用して、10年間(十年紀)のことを旬年(じゅんねん)ともいう。また、10ヶ月のことは旬月(じゅんげつ)[1]という表現もある。
フランスで1793年11月24日から1805年12月31日まで(グレゴリオ暦)施行されたフランス革命暦では、旬と同様、1ヶ月が10日ずつの3つのデカード (décade) に分けられた。デカードは、旬または週と訳される。なおフランス革命暦では、1ヶ月は常に30日なので、デカードも常に10日である。
日本には五十日(ごとおび)の習慣があり、これに沿って給料日などが設けられている。
古代メソポタミアに登場したアッシリアには5日間を単位とする週に類似する制度があった。
・注釈
1.^ 10日間、1ヶ月のことを「旬月」とする場合もある。転じて、「わずかな日数」という意味もある。
・関連項目
 ・旬刊   http://p.tl/SkiG
★逐次刊行物 http://p.tl/x7df
逐次刊行物(ちくじかんこうぶつ)とは出版物の一種で、同一標題の元に終期を定めずに刊行される分冊刊行物である。代表的な物に雑誌・新聞・年鑑がある。

★(宿曜経から転送)   http://p.tl/2Rkt
『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』 (もんじゅしりぼさつきゅうしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくすくようきょう)とは、宿曜道の所依の教典の一つ。一般には『宿曜経』 (すくようきょう、しゅくようきょう)と略称される。上下二巻。
文殊菩薩とリシたちが、二十七宿や十二宮、七曜などの天体の動きや曜日の巡りをもとに、日や方角等の吉凶を読み解く方法を説き明かした物であるとされる。ただしこれは伝説に過ぎず、実際にはインド占星術の入門書とも言うべき内容である。
不空金剛が759年に中国で訳出したとされる。ただし、原典があったかについては疑わしく、恐らく不空が自分の知っているインド占星術の知識を、弟子の史瑶や楊景風に口述筆記させた物と思われる。 一説には、下巻が史瑶による初訳本、上巻が楊景風による改定修注版であるともいい、実際、下巻の方がより元のインド占星術に近い内容である。
日本では空海がこの経をもたらし、曜日が知られるようになった。
★すくよう‐きょう〔スクエウキヤウ〕【宿曜経】   http://p.tl/Q-Zf
仏典。2巻。唐の不空訳。七曜・十二宮・二十八宿の関係によって一生の運命や1日の吉凶を判断する方法を説いたもの。しゅくようきょう。[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]

★六曜と吉凶 - 日の吉凶を表す暦注「六曜」 -   http://p.tl/poZW
★暦注計算 (月ごとに主な暦注を計算・表示します)http://p.tl/9VHy


★古今和歌六帖(こきんわかろくじょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
和歌の類題別私撰(しせん)集。略して『古今六帖』とも。編者・成立年代未詳。兼明(かねあきら)親王、源順(したごう)の編とする説もある。貞元(じょうげん)・天元(てんげん)年間(976~983)の成立といわれる。『万葉集』から『古今集』『後撰集(ごせんしゅう)』のころまでの歌約4500首を収める。天象、地儀、人事、動植物の4項目を、さらに516題に細分し、それぞれの題にその例歌を分類配列している。後世の俳諧(はいかい)歳時記のように、分類された題のもとにその例歌を掲げているのであり、その構成法などから、古来、作歌のための手引書といわれてきた。もとより平安時代の和歌は、たとえば「蛍」といえば火、「吉野」といえば桜か雪などというように、歌のことばが一定の連想作用を促すことばとして発達していた。人々がこうした手引書をもとに、歌ことばを通して作歌法を学んだらしいことは想像にかたくない。 [ 執筆者:鈴木日出男 ]

★月と六ペンス(つきとろくぺんす) [ 日本大百科全書(小学館) ] .The Moon and Sixpence
イギリスの作家サマセット・モームの長編小説。1919年刊。作者が強く心をひかれていた画家ゴーギャンをモデルにした作品。ロンドンの株式仲買人の平凡な事務員だった主人公ストリックランドは、ある日突然、17年間も生活をともにした妻と2人の子供を捨てて、パリへ行ってしまう。それは、ただ絵を描きたいという理由からだけだった。その後さらにタヒチに行き、30歳も年下の先住民の娘アタと同棲(どうせい)し、「癩(らい)」を病みながらも、金のためでもなければ、他人に見せるためでもなく、ただひたすら絵を描き続ける。金は芸術家の第六感だとうそぶいたモームが、純粋な芸術への郷愁を満足させるために書いた作品といえよう。題名の「月」は芸術創造の狂気を、「六ペンス」は平凡な俗世間をさすものと考えられる。発表と同時に反響をよび、モームの作家的地位を不動のものとした。 [ 執筆者:瀬尾 裕 ]

★木六駄(きろくだ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
狂言の曲名。太郎冠者(かじゃ)狂言。奥丹波(たんば)に住む主人は、都の伯父へ歳暮として牛につけた木六駄と炭六駄を持って上るよう、太郎冠者(シテ)に命じる。酒樽(さかだる)まで持たされた冠者は12頭の牛を追い、激しく雪の降る坂道を登って行く。やっと老の坂(おいのさか)の峠の茶屋に着くが、酒がないので土産(みやげ)の酒樽を開いて茶屋と酒宴を始め、「鶉舞(うずらまい)」を舞ったあと、酔うままに、木一駄は茶屋にやり、あと五駄は自分の小遣いにするため換金を頼み、炭六駄だけを都へ届ける。主人からの書状を見て不審がる伯父に、冠者は最近木六駄と改名したので、「木六駄に、炭六駄のぼせ申し候じゃ」とごまかそうとするが、結局嘘(うそ)がわかって追い込まれる。以上は和泉(いずみ)流の筋で、大蔵流では老の坂など地名を特定せず、ことに山本東次郎家の筋立ては非常に違っているが、いずれも、実際には登場しない多くの牛を追って雪の峠道を登って行く冠者の演技が見どころ。 [ 執筆者:小林 責 ]

★許六(きょりく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1656―1715)
江戸中期の俳人。森川氏。本名百仲(ももなか)、通称五介(ごすけ)、別号五老井(ごろうせい)・菊阿仏(きくあぶつ)。近江(おうみ)彦根藩井伊直澄(いいなおずみ)の家臣で、宝蔵院流の槍(やり)を得意とし、狩野(かのう)派の絵画や漢詩にも通じるなど、多芸の人であった。俳諧(はいかい)は初め貞門、談林に学んだが、『冬の日』『猿蓑(さるみの)』などをみて蕉風(しょうふう)の閑寂美にひかれるようになり、1692年(元禄5)江戸出府のおり、ついに面接の機を得て芭蕉(ばしょう)に入門した。芭蕉晩年の新風の体得者を自任した許六は、自ら「正風血脈(けちみゃく)の門人」と称して血脈説を唱え、また句作の方法として取合(とりあわ)せ論を力説するなど、蕉風理念の究明に鋭い直観力を示して、彦根風の一派を形成したが、とくに師の没後の蕉風混迷期に次々に著した『篇突(へんつき)』『宇陀法師(うだのほうし)』『俳諧問答』『歴代滑稽(こっけい)伝』などの俳論書は評価が高い。なお、芭蕉をはじめ蕉門俳人の文章を集めて『本朝文選(もんぜん)』を編纂(へんさん)したことも俳文史上特筆されねばならない。
十団子(とをだご)も小粒になりぬ秋の風
[ 執筆者:堀切 實 ]

★喜多六平太(きたろっぺいた) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1874―1971)
能のシテ方、喜多流14世宗家。母は12世喜多能静(のうせい)の三女。旧幕臣宇都野鶴五郎の二男として東京に生まれる。幼名千代造。1881年(明治14)7歳で喜多宗家を継ぎ、のち六平太を名のる。号は能心。流儀再興に辛苦し、芸術面でも一貫した指導者に恵まれなかったが、独自の芸風を打ち立てた。とりわけ、気迫の強さ、鮮烈な技(わざ)、表現の自在など、追随を許さぬ名人であり、能界最長老として後進の指導にあたった。1947年(昭和22)日本芸術員会員。53年文化勲章受章。55年重要無形文化財保持者に認定。73年に再建された喜多能楽堂は、彼の名をとって14世喜多六平太記念能楽堂と命名された。養子に15世宗家喜多実(みのる)がいる。なお六平太は流祖喜多七大夫(しちたゆう)の幼名で、12世能静もこれを称し、現在喜多長世も16世六平太を名のる。 [ 執筆者:増田正造 ]

★大島伴六(おおしまばんろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1588―1657)
槍術(そうじゅつ)大島流の祖。美濃(みの)(岐阜県)の人。通称雲平(うんぺい)、名は吉綱(よしつな)。隠居したのちは、伴六、安心と号した。明暦(めいれき)3年11月没、70歳。
[ 執筆者:渡邉一郎 ]

★井戸村与六(いどむらよろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
戦国時代末から近世初頭の近江(おうみ)国坂田郡(滋賀県米原(まいばら)市)箕浦(みのうら)の土豪。父は井戸村左京亮光慶といって北近江の戦国大名浅井長政の家臣であった。浅井氏滅亡後、兄小二郎秀勝はなおも武士化の道を模索するが、弟与六は箕浦に居住し地主的経営に乗り出していった。1591年(天正19)与六は太閤検地(たいこうけんち)を前に「作職書付(さくしきかきつけ)」を作成、太閤検地によって否定されそうになった「作合(さくあい)」とよばれる中間搾取の特権を維持しようとしている。このことが太閤検地の政策基調を論ずる際の焦点となり、井戸村与六の名が広く知られるようになった。与六の土地を請作(うけさく)し、作職を扶持(ふち)された農民は27名を数える。 [ 執筆者:小和田哲男 ]

★作合(さくあい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
近世初期の有力農民が、領主と直接生産小農民との間にあって中間搾取する形態。幕藩制社会では、領主―農民の一元的関係が確立していて、田畑の生産物は、その生産活動に必要な部分を生産農民が取り、残りを領主がすべて収取するのを原則とした。しかし、太閤(たいこう)検地段階から近世初期にかけては、持高(もちだか)の零細な小農民に自立しがたいものが多かった。そこで、多くの高をもつ有力農民ないし土豪は、自分の持高の若干を小農民に耕作させて、彼らの自立を助けながら収取し、その収取分から領主へ年貢を納めて、なお手元に若干を残した。この残分が中間搾取分であり、作合とよばれた。作合は一種の小作料である。 [ 執筆者:宮川 満 ]

★太閤検地(たいこうけんち) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/D46j
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の行った検地。天正(てんしょう)の石直(こくなお)し、文禄(ぶんろく)の検地ともいう。太閤とは関白を辞めた人の尊称であるが、秀吉は1591年(天正19)関白を養子秀次(ひでつぐ)に譲ったのち、好んで太閤と称したのでそれが秀吉の別称ともなり、彼の実施した検地も太閤検地とよばれるようになった。もちろん秀吉が太閤と称してからの検地のみでなく、それ以前の検地も含まれる。この太閤検地は、わが国土地制度上の一大変革であり、政治・経済・社会・文化などに多大の影響を与えた。 [ 執筆者:宮川 満 ]