●忌部一族
★民部(かきべ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「たみべ」とも読む。664年(天智称制3)の甲子(かっし)の改革で設定された身分階層の一つ。663年8月における朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)での敗北後、翌年2月に発令された内政改革の一環として、家部(やかべ)とともに諸氏に設定された。その性格・意義については諸説があるが、大化改新によって公民になった民衆への私民的支配の復活や、また後の律令(りつりょう)制の帳内(ちょうない)・資人(しじん)的な従者の源流と推測するよりも、なお広く残っていた諸氏の私民的支配に、国家権力による統制を加え、その認定・登録を図ったものとすべきであろう。民部・家部は670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)に載せられ、壬申(じんしん)の乱を経た675年(天武天皇4)、家部よりも身分の高かった民部(部曲(かきべ))は公民化された。[ 執筆者:野村忠夫 ]
★甲子(きのえね) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
十干(じっかん)の甲と十二支の子(ね)にあたる年月日をいう。大黒天の縁日とされ、甲子の夜、子の刻まで起きていて大黒天を祀(まつ)るのを甲子祭と称している。甲子待(まち)ともいい大豆、黒豆、二股(ふたまた)大根を供えて大黒様を祀る。こうすると現世の福を得られるという。『日次紀事(ひなみきじ)』によると、一年中六甲子の夜、禁裏では子(ね)(大黒天)を祀ったという。民間では、甲子ごとに灯心を買うのを子灯心というとある。[ 執筆者:大藤時彦 ]
★僧官(そうかん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
僧尼を統括し、その非行を取り締まる役。国家は仏教教団を行政組織に組み入れて支配するために、種々の制度を設け、さらに僧官を任命した。日本では、すでに養老令(ようろうりょう)(718)に僧尼令27条があって僧尼を取り締まり、それより先、624年(推古天皇32)に百済(くだら)の僧観勒(かんろく)が僧正(そうじょう)に任ぜられ、683年(天武天皇12)には、中央に僧正、僧都(そうず)、律師(りっし)の僧綱(そうごう)を置き、地方の寺にはそれぞれ三綱(ごう)(上座(じょうざ)、寺主(じしゅ)、都維那(ついな))を置いて僧尼を取り締まった。有能な僧を僧官に任命して僧尼を統括させることは、すでに中国にある。北魏(ほくぎ)の時代(397)に法果を沙門統(しやもんとう)に任じた。後秦(こうしん)の時代(405)には僧(そうりやく)が僧正に任ぜられ、僧遷が悦衆(えつしゆ)、法欽らが僧録(そうろく)に任ぜられたという。彼らは国家から費用が給せられ、この制度が日本に移入せられて僧綱の制度となった。
奈良・平安時代には僧綱の権威は強大で、僧尼の非行を取り締まり、出家と還俗(げんぞく)の事務を行い、教団行政に君臨した。出家のとき僧綱より度牒(どちょう)(得度を公認する文書)が与えられ、在家の籍を抜き、人頭税が免ぜられた。最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)に大乗戒壇をつくらんとした目的の一つは、僧綱の支配を脱せんためであった。しかしのちには、僧官は名誉職となり、皇室や貴族出身の僧が高位の僧官に任ぜられるようになった。僧正は僧官の最高位であり、その下に僧都があり、僧尼を統括した。中国では6世紀に慧光(えこう)が僧都に任ぜられたのが初めで、日本では624年に鞍部徳積(くらつくりのとくしやく)が任ぜられたのが最初であるという。僧録も僧官の1種であり、後秦代に初めて置かれたが、僧尼の名籍などを記録し、僧の人事をつかさどった。わが国では室町時代にこの僧官が置かれ、相国(しょうこく)寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が僧録に任ぜられ、京都禅宗寺院の五山十刹(じっせつ)の人事をつかさどり、あわせて幕府の政治外交等の文書をも作成した。この事務所を僧録司という。[ 執筆者:平川 彰 ]
★観勒(かんろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
生没年不詳。7世紀の百済(くだら)(朝鮮)の僧。602年(推古天皇10)10月来日し、このとき、暦本、天文地理書、遁甲(とんこう)(妖術(ようじゅつ))方術書を献じた。624年4月、一僧が斧(おの)で祖父を殴る事件が起こると、天皇はこれをとがめ、諸寺の僧尼を集めて推問し、悪逆の僧および諸僧尼を罰せんとした。その際、観勒は上表して、僧尼はまだ戒法になじまないとして悪逆の僧以外をことごとく許すよう願い、許された。その後、詔(みことのり)によって僧正(そうじょう)、僧都(そうず)を置き、僧尼を検校(けんぎょう)(監督)することとなり、観勒が最初の僧正に就任したと『日本書紀』に伝える。[ 執筆者:二葉憲香 ]
★検校(けんぎょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
検とも書く。点検典校の意から、中国では経籍(けいせき)をつかさどる官名などに用いる。日本では、事務を検知校量することから、平安・鎌倉時代の荘官(しょうかん)の職名に用いられた。しかし、とくに僧職の名として用いられる場合が多く、寺社の事務を監督する職掌をいう。常置の職としては、896年(寛平8)東寺の益信(やくしん)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)検校に任ぜられたのが初出で、高野山(こうやさん)、熊野三山、無動寺などにおいても、一山を統領する職名であった。法会(ほうえ)や修理造営の行事を主宰する者の呼称としても用いられる。中世には盲目の琵琶法師(びわほうし)仲間(当道(とうどう)座)の長老も検校とよばれ、『師守(もろもり)記』貞治(じょうじ)2年(1363)条の「覚一(かくいち)検校」が初見とされる。江戸時代には当道座が幕府によって認められ、惣(そう)検校の下に検校・別当・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)などの官位があった。また、江戸には関八州の盲僧を管轄する惣録(そうろく)検校も置かれた。平曲のほか地歌、箏曲(そうきょく)、鍼灸(しんきゅう)、按摩(あんま)などに従事する者で官位を目ざす者は試験を受け、多額の金子(きんす)を納めてこの職名が授けられた。[ 執筆者:石川力山 ]
★律師(りっし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
持律者、律者ともいう。(1)出家者のさまざまな行為の規範である律(りつ)に通暁し、またこれを暗記し、誦(じゅ)して、人々を教化する有徳の者。(2)日本において僧尼の規律を定めた規定集「僧綱(そうごう)」に設けられた官職の一つ。僧正(そうじょう)、僧都(そうず)と合して三綱(さんごう)といい、僧尼を統轄する官職名。のち大・中・小の三律師に分かれたが、その後これを廃し、律師の下の官職に権(ごん)律師が設けられた。1285年(弘安8)律師は五位殿上人(てんじょうびと)に準ぜられた。[ 執筆者:坂部 明 ]
★僧録(そうろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
官命により僧尼の登録や任免など、僧衆の管理にあたる僧官のこと。同様の職掌に僧正(そうじょう)や僧綱(そうごう)があるが、僧録はおもに禅宗における呼称。中国では後秦(こうしん)のころにこの名称があるが、唐代の802年に端甫(たんぽ)が初めて任じられ、明(みん)代にもその制があった。日本では、1379年(天授5・康暦1)相国(しょうこく)寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が足利義満(あしかがよしみつ)に命ぜられ、代々鹿苑院(ろくおんいん)(義満の修禅道場)の院主がこの職に任じられ、1615年(元和1)の以心崇伝(いしんすうでん)に至るまで存続した。曹洞(そうとう)宗では、応安(おうあん)年間(1368~75)に丹波(たんば)(京都府)永沢(ようたく)寺の通幻寂霊(つうげんじゃくれい)が任じられたのが初めで、近世では、幕命により下総(しもうさ)(千葉県)総寧(そうねい)寺、武蔵(むさし)(埼玉県)竜穏(りゆうおん)寺、下野(しもつけ)(栃木県)大中(だいちゅう)寺の各住職が天下大僧録に、遠江(とおとうみ)(静岡県)可睡斎(かすいさい)の住職が東海道大僧録に任じられ、全国に僧録頭(そうろくがしら)、録所(ろくしょ)寺院を配置して一宗を管掌した。また近世では新義真言(しんごん)宗にも僧録があった。[ 執筆者:石川力山 ]
★禅宗(ぜんしゅう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国と日本の、仏教の一派。6世紀の初め、インド僧の達磨(だるま)(ボーディダルマ)が開宗、唐より宋(そう)初にかけて、中国文明の再編とともに、民族自らの宗教として独自の教義と歴史をつくり、鎌倉時代以後、日本にきて結実する。経論の学問によらず、坐禅(ざぜん)と問答によって直接に仏陀(ぶっだ)の心に目覚める、見性悟道を説く。近世中国の仏教はみな禅宗を名のるが、日本では他の諸宗に伍(ご)して、曹洞(そうとう)、臨済(りんざい)、黄檗(おうばく)の3派を数える。[ 執筆者:柳田聖山 ]http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A6%85%E5%AE%97/
★黄檗(おうばく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
京都府南部、宇治市の一地区。1661年(寛文1)明(みん)僧隠元(いんげん)が開山した黄檗宗大本山万福寺(まんぷくじ)がある。伽藍(がらん)は中国風の様式を示し、また鉄眼道光(てつげんどうこう)の『一切経(いっさいきょう)』版木(はんぎ)を蔵する宝蔵院がある。付近は宇治茶発祥の地と伝えられる。JR奈良線と京阪電鉄宇治線の黄檗駅がある。[ 執筆者:織田武雄 ]
★鉄眼道光(てつげんどうこう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1630―1682)
江戸前期の黄檗(おうばく)宗の僧。鉄眼版(あるいは黄檗版)大蔵経(だいぞうきょう)の開版で知られる。肥後(ひご)(熊本県)に生まれる。13歳で出家し、のちに京都に出て黄檗宗の隠元隆(いんげんりゅうき)や木庵性(もくあんしょうとう)に就いて学ぶ。1668年(寛文8)大蔵経の版木をつくって印刷することを決意し、経典の講義を行うなどしてその資金を集めた。宇治の黄檗山万福寺の寺中に宝蔵院を建て、版木の貯蔵所とし、京都には印房を開いて、開版事業に奔走。73年(延宝1)、大眉性善(だいびしょうぜん)より、黄檗山内の塔頭(たっちゅう)(子院)東林庵を譲り受け、宝蔵院をここに移転した。76年には木庵の法を嗣(つ)ぎその弟子となり、78年に開版事業を完成させた。この間に、江戸・青山に開蔵寺(のち海蔵寺)を建立し、和泉(いずみ)(大阪府)に瑞竜(ずいりゅう)寺を再興するなどの活動をみせ、82年(天和2)、近畿地方の大飢饉(ききん)には難民救済に尽力し、同年3月22日に53歳で寂した。[ 執筆者:廣瀬良弘 ]
★黄檗版(おうばくばん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
江戸時代につくられた木版大蔵経(だいぞうきょう)の一つ。黄檗宗の僧であった鉄眼道光(てつげんどうこう)が大蔵経を板木に刻むという一大事業を企て、全国を行脚(あんぎゃ)して浄財を集め、前後13年を費やして完成したもので、「黄檗版大蔵経」または「鉄眼版大蔵経」という。木版の大蔵経は中国では宋(そう)代以後盛んにつくられ、そのいくつかは日本にも伝えられた。徳川家光(いえみつ)の時代には、わが国最初の木活字による大蔵経が天台宗の僧天海(てんかい)によってつくられた。この「天海版大蔵経」はきわめて限られた部数しか摺(す)られなかったが、その後つくられた黄檗版は全国の各宗寺院に流布し、仏教研究に大きく貢献した。黄檗版は中国明(みん)代の万暦版を覆刻したもので、6956巻からなる。その版木は京都府宇治の黄檗山万福寺(まんぷくじ)に現存し、国の重要文化財に指定されている。[ 執筆者:岡部和雄 ]
★氏(うじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
家系を表す名称で、姓、苗字(みょうじ)をさす。また、「山田氏(うじ)」などと苗字につけて敬意を表すこともある。日本の古代社会においては、支配階級の父系血縁集団の呼称。[ 執筆者:黛 弘道 ]http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B0%8F/
★大黒天(だいこくてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
元来ヒンドゥー教の主神の一つで、青黒い身体をもつ破壊神としてのシバ神(大自在天)の別名であり、仏教に入ったもの。サンスクリット語のマハーカーラMahklaの訳で、摩訶迦羅(まかから)と音写。マハーカーラは偉大な黒い神、偉大な時間(=破壊者)を意味する。密教では大自在天の眷属(けんぞく)で三宝(さんぼう)を愛し、飲食を豊かにする神で黒色忿怒(ふんぬ)相を示し、胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の外金剛部に入れられている。七福神の一つ。
中国南部では床几(しょうぎ)に腰を掛け金袋を持つ姿になり、諸寺の厨房(ちゅうぼう)に祀(まつ)られた。わが国の大黒天はこの系統で、最澄(さいちょう)によってもたらされ、天台宗の寺院を中心に祀られたのがその始まりといわれる。その後、台所の守護神から福の神としての色彩を強め、七福神の一つとなり、頭巾(ずきん)をかぶり左肩に大袋を背負い、右手に小槌(こづち)を持って米俵を踏まえるといった現在よくみられる姿になる。商売繁盛を願う商家はもとより、農家においても田の神として信仰を集めている。民間に流布するには天台宗などの働きかけもあったが、音韻や容姿の類似から大国主命(おおくにぬしのみこと)と重ねて受け入れられたことが大きな要因といえよう。また、近世に隆盛をみた大黒舞いの芸人も大きな役割を果たしたようである。大黒柱などの名とともに親しまれており、東北地方では大黒の年取りと称して、12月に二股(ふたまた)大根を供える行事が営まれている。[ 執筆者:前田式子・佐々木勝 ]
★大自在天(だいじざいてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
仏教の神。サンスクリット語のマヘーシュバラMahevara(大主宰神の意。摩醯首羅(まけいしゅら)と音写)の訳。元来はヒンドゥー教の主要な神の一つで、ヒマラヤ山脈中のカイラーサ山に神妃パールバティーと住むシバ神の呼称である。密教に取り入れられて十二天の一となり、胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の外金剛部に属し、ありとあらゆる世界すなわち大千世界の主とされた。崑崙山(こんろんざん)上の美しく飾られた宮殿に住み、60の天神に守護され、百千の天女に取り巻かれているという。その像は三目八臂(はっぴ)で天冠を頂き、三叉(さ)の戟(げき)を手に持ち、白牛に乗っているのが普通である。[ 執筆者:前田式子 ]
★胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
真言(しんごん)密教で使用する現図(げんず)曼荼羅の一種。金剛界曼荼羅に対する。通常は金堂などの内陣の東側に懸けるもの(懸(かけ)曼荼羅)をいう。また胎蔵界壇上の敷(しき)曼荼羅。サンスクリット語ではガルバコーシャ・マンダラGarbha-koa maalaという。漢訳は大悲胎蔵生(だいひたいぞうしよう)曼荼羅、理曼荼羅、因曼荼羅、東曼荼羅。『大日経(だいにちきょう)』具縁品(ぐえんぼん)の所説の大曼荼羅を基調とし、現図は十二大院からなる。その構図は左右(南北)は三重、上下(東西)は四重からなり、上(天)を東方とする。中央は十二大院の中心である中胎八葉院を配す。ここは八葉蓮弁(れんべん)を土台とし、その上に大日如来(にょらい)(中央)ほか四仏、四菩薩(ぼさつ)を描く。計409尊を描く。[ 執筆者:真鍋俊照 ]
★七福神(しちふくじん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
福徳の神として信仰される7神の組合せ。大黒天、恵比須(えびす)(夷、蛭子)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁才天(べんざいてん)(弁天)、布袋(ほてい)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)をいうが、寿老人は、福禄寿と同体異名として除き、吉祥天(きっしょうてん)を加えることもある。大黒天はインドの神(摩訶迦羅(まかから))で大自在天の化身(眷属(けんぞく)ともいう)、毘沙門天は四天王の一つで北方守護の神、ともに仏法の守護神で福財招福の神ともされた。弁才天も同じくインドの天部の神で音曲、知恵、福財をつかさどる。恵比須神は海の幸をもたらす「寄神(よりがみ)」で海辺の民間信仰に根ざすものらしいが、「大黒=大国」の相通(そうつう)からか大黒天が大国主命(おおくにぬしのみこと)に習合されると、事代主命(ことしろぬしのみこと)に比当されるようになった。ともに平安期以来個別に福神として信仰を集めてきた神々である。しかし布袋(後梁(こうりょう)の禅僧契此(かいし))、福禄寿、寿老人は中国の福徳神で、禅宗渡来後水墨画の好画題として移入されたものらしく、福神信仰としては独自に定着しなかった。これら雑多な福徳の神を「七」の聖数にあてて組み合わせたのが七福神だが、すでに室町初期にはできあがっていて、1420年(応永27)に七福神の風流行列が京都で行われたり、文明(ぶんめい)年間(1469~87)には七福神を装った盗賊が出没し、これを福神の来訪としてむしろ歓待したという記録などが残っている。ともかく中世商人社会で福徳施与の神として流行的に信仰され、近世以後にも及んだ。七福神は瑞祥(ずいしょう)の象徴として絵画・彫刻の好題材となり、またその影像を家に飾って拝礼し、あるいは七福神詣(もう)でや初夢の宝船などの信仰習俗を広く生じ、一方、七福神舞などの芸能もできて現在まで伝わっている。[ 執筆者:竹内利美 ]