白虎隊 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

戊辰、會津戰役に於ける悲壯譚は多々あるけれど、わけて人口に膾炙するものは、白虎隊少年鬪士である。明治元年八月、石莚口破れて、官軍、會津領に進擊し來り、吾精銳の軍隊は皆國境に派せられてゐたから、敵は進んで十六橋を渡り、戶のロ原に陣した。白虎隊の一部隊、之れを防ぐべく鬪うたか、遂に敗れて、城を退くに方り、路を失ひて、辯天祠前に出で、兵燹の烟熖を見て、城將に陷らんとすると察し。こゝに若松城を拜して、二十名の少年武士環座して自盡した。中に飯沼貞吉のみ、殊せざる間に發見せられて、幸に蘇生した。是等の隊士は皆十六七歲の少年のみであつた。戰死十九名の姓名を列錄すると、
 井原茂太郞(十六歲)  永瀨雄次(十六歲)
 石山虎之助(十七歲)  野村駒四郞(十七歲)
 伊藤俊彥(十七歲)  簗瀨勝三郞(十七歲)
 石田和助(十六歲)  簗瀨武治(十六歲)
 池上新太郞(十六歲)  間瀨源七郞(十七歲)
 伊藤悌次郞(十七歲)  有賀織之助(十六歲)
 林 八十治(十六歲)  安達藤三郞(十七歲)
 西川勝太郞(十六歲)  篠田儀三郞(十七歲)
 津川潔美(十六歲)  鈴木源吉(十六歲)
 津田捨藏(十七歲)

 明治元年八月、白河口の官軍は、二本松口を發して、母成峠の會津軍を破り、二十一日、石莚方面の關門を占め、進んで十六橋の險を渡り、戶の口原に露營した。時に會津の壯者は出でて諸方の國境を守り、殘る者は吏胥及び老幼婦女子のみで、敵軍を防ぐ兵に缺けてゐた。乃ち第二奇勝隊、砲兵一二番隊、敢死隊を戶の口原に派遣したが、奇勝、敢死の兩隊は、數週前に農工商から募集した兵であるから、銃の取扱法すら辨へぬ。
 二十二日、官衙の吏員で編成した遊軍寄合組を出兵したが、之れ亦兵數寡少なる上に、兵器とゝのはず、甚だ微力の軍隊であつた。
 以上四隊の外に、白虎二番士中隊三十七名も派遣せられた。白虎隊は會津藩士の十六七歲なるを選んで編成し、上級の士族の子弟を白虎士中隊と呼び、中士のを白虎寄合隊といひ、下士のを白虎足輕隊と稱した。各級の隊に一番隊二番隊とある。白虎二番士中隊は、上士の子弟で組織せられた三十七名の一隊で、將校の數は五名。
 八月二十二日、白虎二番士中隊は、隊將日向內記に率ゐられ、城外瀧澤村に至り、夕刻、戶のロ原に進んで敵を防ぐの命を受けた。折柄大雨ありて行進甚だ惱み、出でゝ戶のロ原に赴くと、彼我の接戰甚だ急なるものがある。兵數の多寡といひ、兵器の精否といひ、其强弱殆んど對比すべきものでない。會軍次第に敗れて死傷相踵ぎ、漸次退却を始めた。
 翌拂曉に至り、會藩の他の諸隊は悉く已に退き去り、白虎隊のみ遺されて、腹背敵に挾まれてゐるのを發見した。大に驚いて、且戰ひ且退き、隊將の指揮宜しきを得なかつた爲に、隊士二十名、鮮血淋漓の儘、刀を杖つきて山徑を潛行した。
 倂も飢えと疲れとに殆んど戰鬪の意志を喪うてゐる。若し敵のために發見せられて、其捕虜となるの恥辱を見んよりは、寧ろ自刄して相果つるが本望だともいふ者もあつたけれど、君公の前途を見てから、生を捨つるも晚くないではないかとの、西川勝太郞の說に從うて、兎に角城に還る事にした。
 然るに捷徑を知る者が一人もゐない。所嫌はず、崖を攀ぢ、山谷を跋涉して、天明の頃漸くに瀧澤不動に達し、新堀に至つた。
 此時、官軍の先頭は已に城下に迫り居り、其後續部隊は瀧澤坂上にゐて、此の敗殘の少年兵士等をめがけて、狙擊亂射したから、之れを避けて、匍匐して洞穴をぬけ、辯天祠の傍に出た此所から望むと、城下は一面の火の海と化して、若松城は熖煙に包まれてゐる。物すさまじき砲銃の響きや、劍戟の音は手にとる如くに聞える。最早落城の間際と視るべしである。
 茲に於て隊士は互に顧みて、今や一死君國に殉するの秋であると觀念し、二十名、環座して城を拜し、潔く自盡して斃れた。
 井深茂太郞 會津の世臣重敎の嫡子。十三歲にして藩の講釋所を及第し、賞賜せらる。黑川の地に深澤天神といふのがあつた。其祠傍の地藏堂は、深夜赴くと必らず怪があるとて、人々皆畏れをなしてゐた。茂太郞之れを狐狸の惡戲と解し、暗夜、獨り堂前に踞して曉に及んだが、毫も怪異に遭はなかつた。卽ち文に達し、武に勝るの好箇の會津少年であつた。白虎士二番中隊の記錄を司り、戶の口原に敗れて、他の十九少年と共に飯盛山に自刄した。
 石山虎之助 會津世臣井深數馬の二男。五六歲の頃、百人一首を暗誦して、人を驚かしめた。十二歲にして藩黌日新館に入り、文武優秀の廉で恩貫を授けられた。郭內の本一の丁に用屋敷なる官舍があつた。夜中に怪異があるとて、世に懼れられてゐたが、一夜、虎之助同輩と某家に會した折、談此事に及んで、虎之助は自ら其怪を探る事になつた。時に微雨そぼ降り、黑暗々の夜であつた。虎之助、立ち出でゝ用屋敷の前を數回往還して歸つて來た。衆之れを聞いて容易に信用せぬ。然らば證據を殘して置たから就いて見よといふから、衆、燈を執りて、行きて檢し視ると、果して門柱に虎之助の紋章を刻した小柄が突き刺してあつた。時に虎之助僅に十三歲であつた。
 伊藤俊彥 藩士新作の長子。常に曰く、我祖先は追鳥狩にて數次賞を受けたが、今日の時勢は追鳥狩を以て兵を習ふが如き時ではない。若し敵の來襲あらば、我れ必らず一番槍の賞を受けんと、短刀を以て案を打つて傲語してゐた。 石田和助 藩醫龍玄の子。友人等、和助の家が卑賤から起つたのを辱かしめて、成り上り者と蔑稱した。和助笑つて。農家より進んで藩公の醫となる、固より成り上り者である。しかし乍ら、碌々として先祖の高祿を守り、唯之れを失はぬ事のみを汲々つとむる惰者に比しては其何れをとるべき乎を尋ねたいと、云うた。
 池上新太郞 藩士與兵衞の子。十歲にして日新館に入學し文武の道を修む。戊辰の役、父は靑龍一番寄合組隊の半隊頭として、楊杖口に出陣した。新太郞、願はくば父と共に死なんと乞うて、父の軍に從つたが、後に白虎隊に編入され、勇躍して入隊した。
 伊藤悌次郞 藩士祐順の子。少にして勤學を以て賞せらる、柔術と砲術とに勵む。白虎隊に編入せらるゝや、父ために榮光の利刀を購うて與ふ、悌次郞、喜んで國家に報じ、慈父の賜ふ恩を空しうせずと稱し、八月二十二日、其刀を帶びて戶の口原に戰うた。
 林八十治 藩士光和の子。十歲にして日新館に入り、十五歲にして講釋所に入り、屢々賞を受く。八月二十ニ日、家を辭せんとするや、祖母戒めて、諸事油斷なく御奉公せよといふ。八十治答へて曰く、平常の庭訓ある上に今祖母の戒めあり、一死を以て必らず君恩に報ぜんと奮然隊に伍して戶の口原に向うた。
 西川勝太郞 父半之丞は一刀流の名手で、伏見に鬪うて勇名を轟かした。勝太郞亦父に恥ぢぬものであつた。八月、白虎二番士中隊、藩主容保に隨うて瀧澤に赴いた。こゝに議あつて、一隊は止りて瀧澤を守り、一隊は進んで敵に當るべしとある。勝太郞乃ち曰く、寡兵を以て大敵に當る時に臨み、勢力を二分すれば、進んで戰ふ者も敗れ、守る者も亦其益がないであらう我等年少の輩は一致して敵に當るがよい、留守するは壯者を以てせられよと。衆之れに從ひ、協力して戶の口原に戰うた。敗れて後、途に自殺を計るの說が出たが、勝太郞止めて、我等の力全く盡きたのでない。其上君公の事についても未だ何等の知る處もない。今乍らく退いて、刀折れ、力盡きて、城陷り、君公殉せるを見て、死するも遲くはないでないかと。衆又此言に從つて、城に歸らうとして、道を失し、飯盛山に登つて、城廓の兵火に冒されゐるを視て、終に自刄した。
 津川潔美 藩士高橋重固の三子、津川瀨兵衞の養子となる。少年數輩と學校よりの皈り途路上蛇の橫はるを見つけた。衆之れを殺さうとするを、爬虫を殺して何の益する處があると止めた。一日、母と共に城西中田觀音に詣でた。茶店に憩うて午餐を取る時、巨犬がゐたから之れに殘肴を與へてゐると、犬誤つて、潔美の拇指を咬んだ。乃ち自ら其指端を嚙みきりて捨て犬齒の毒の他に及ぶを防ぎとめ、逬しる鮮血を淸め、平然として繃帶して歸つた。之れは母を驚かしめるを恐れたのである。
 津田捨藏 藩士朝則の子、江戶藩邸に生る。曾つて其家に藏する古甲を見て父に其所以を問うた。父は遠祖大谷吉隆の遺物と答ふ。吉隆畢竟何者か。父はために、吉隆が石田三成の誼みによつて、義のために敗を豫知しながら、關ヶ原に戰死した史實を敎へた。捨藏大に感憤し其甲を着けて、刀をぬき三たび敵を斬るの狀をなした。
 永瀨雄次 藩士丈之助の次男。長じて砲術を學ぶ。雄次、戰に臨むために、母に乞うて淺靑色の洋服を作つた。之れは出でゝ山野に於て戰ふ時に、樹草の色と相接して敵の注意を避くるためである。八月二十二日、石莚の敵、進出したりと聞くや、朝餐の箸を棄てゝ起ち、脚絆を兩脚に穿つ間もなく、銃を把つて奔り出た。母、爲に他の隻脚の脚絆を携へて逐ひかけ、漸く諏訪通に至つて之れを着けさしめた。
 野村駒四郞 藩士野村淸八の三男。好んで槍術を學んだ。戶の口原の戰に激戰の末、携へる銃損じて用をなさぬやうになつたから、破銃を捨て短兵急に接戰せんとした。會々小隊長山內弘人の連發元込銃を肩にして來るを見て、隊長には銃を要しないであらうから、我れ之れを借るといひ、其銃を取つて突進した。
 簗瀨勝三郞 藩士源吾の三男。弓馬劍槍の外に、佛蘭西調練を學んだ。父は兵學の師であつた。
 簗瀨武治 藩士久人の次男、母は、明治十九年思案橋事件の頭目永岡久茂の長姉である。武治射技に達し、飛鳥を射て賞贊を博した事があつた。十三四歲の頃、父に從ひ本鄕村に行くの途中、小松の渡しの假橋を通ると、老農婦が橋がら水に落つるのを見た。水勢急であつて將に溺れんとしてゐる。武治、衣帶のまゝ飛込んで其老婦を救ひ揚げた。又友人と共に若松市中を散步する時、火災が起り、猛火忽ちにして數戶を燒き拂ひ、防ぎ難き模樣となつた。武治、乃ち消防夫を指揮して鎭火につとめたが、毛髮衣服を燒くも尙防禦に盡力して、ために數ヶ所の火傷さへ負つた。火は漸くにして鎭つた。
 有賀織之助 藩士權左衞門の次男。九歲にして、城西鴨川原に於て、大演武があつた時、薙刀を揮つて衆人の稱賀を博した。常に冒險の氣性强く。大雨の後、鶴沼川の濁水を往復力泳して、朋友をして舌を捲かしめた事もある。約を守る事至つて堅く、一日、疾風豪雨、迅雷天地を震ふの時に當つて、身に蓑笠を纏ひ、裸足で、約束の地へ約束の時刻に來た事がある。
 安達藤三郞 藩士小野田彌右衞門の四男、後に安達氏を冒した。城北、木流村にある觀音堂は四月八日か其賽日で、農民は各々馬を飾つて競ひ連れて來る。一農夫、醉うて馬に乘り、散々麥畑を荒し廻つてゐた。藤三郞も騎馬で來つたが、此樣子を見るや、俄に馬首を回へした友人其所以を尋ねると、李下に冠を正さず、瓜田に沓を容れず、といふが、騎馬の醉漢の惡戲の傍にゐて、つまらない孃疑をうけるは好ましくないからと答へた。
 篠田儀三郞 藩士兵庫の次男。六七歲の頃、友と螢狩する事を約束した。其夜に及びて風雨激甚となり、到底螢をとり得るが如き夜でない。然るに儀三郞、右手に螢籠を携へ、左手に箒を摑んで訪づれ來た。友驚いて此風雨に如何にして來たかといふと。儀三郞は、約束は約束だ、螢の有無は問題でないと答へた。又、降雪奇寒の日にも、約の如く、儀三郞のみ、木履を手にして、跣足で來り會した事もある。
 鈴木源吉 藩醫玄甫の子。源吉の戰ひに出でんとする時、兄金次郞、冬廣の短刀を與へて負傷のため生擒せらるゝ時には、此短刀で速に白刄せよと誡めた。源吉、喜んで之れを受けて出發した。
 菅(ママ)沼貞吉 飯盛山自刄の二十士の中に、單り蘇生したのは貞吉である、藩士一正の次男、嘉永六年に生れ、明治戊辰の際には十七歲であつた。刀を把り自ら咽喉を刺して、他の白虎隊士と共に斃れたが。偶々藩士印出新藏の妻、飯盛山に避難し來り、白虎隊士の死屍を見て、我子も此中に交りゐるかと、搜し索めてゐると、まだ死に切らぬものが一人ある。之れを負うて瀧澤村の農家に運び、手を盡して介抱したら、幸に蘇生せしむる事を得た。之れ貞吉である。卽ち病院に移され、療養多日、遂に全治するを得たのである。

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