榎本釜次郎 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

榎本釜次郞、後に名を武揚と改む、號は梁川、幕臣榎本園兵衞の次子、天保七年八月、江戶下谷徒士町に生る。十二歲にして、昌平黌に入り在學五年。嘉永六年、和蘭學傳習生となりて長崎に赴き、蘭人に就きて蘭學を修め、海軍操練所に其專門の學を修む。安政五年江戶に還り、海軍操練所敎授となり、文久元年、和蘭留學選拔生を兼ねて、軍艦開陽丸建造監督の爲に、幕府より和蘭留學を命ぜらる。長崎を出でゝ蘭國に航す、時に二十六歲。航行中、瓜哇附近に於て乘船難破し、無人島に漂着して、具に難苦を甞めた。更に瓜哇島に達し、乘船をもとめて、和蘭アムステルダムに着く。留學六年、開陽丸峻工し、同艦を操縱して歸航の途に就く。歸朝の後、開陽艦長より、軍艦組頭取、軍艦奉行に累進し、當時海軍の新智識として錚々たる者であつた。德川幕府倒るゝや、明治元年八月十九日、軍艦八隻を率ゐて、品川灣を脫して北行し、北海道に赴きて官軍に抗した。自ら總裁となり、松平太郞を副とし、荒井郁之助を海軍奉行に、大鳥圭介を陸軍奉行となし、五稜郭に據りて勢威頗る揚る。明治二年、官軍、海陸竝び進み、之れと鬪ひを交へて、釜次郞等は遂に敗れ、官將黑田淸隆の勸降に從ひて、甘んじて朝廷に降つた。明治政府に仕へ、或は駐外使臣となり、或は遞信、文部、農商務、外務の大臣と爲り、海軍中將に陞り、子爵を授けらる。明治四十一年十月二十六日、七十三歲にして逝く
 幕府、長崎に海軍操練所を設け、伊澤美作守其奉行となり、和蘭人を敎師に聘して、專門の學科を敎授せしめ、昌平黌の選拔生を以て傳習生となして、之れを學習せしめた。釜次郞、昌平黌を卒へて、長崎の傳習生たらん事を志願したが、目的を果し得ぬ。釜次郞は、美作守の邸を訪ひ、其從僕として長崎に行かん事を請ひ、漸く允された。時に嘉永六年、釜次郞十九歲であつた。
 從僕の資格は、傳習生と共に敎場の机に同列する事が出來ぬ。室の片隅に在りて聽講するより方法がなかつた。然るに卒業の曉になると、却つて釜次郞の成績優勝なるを認められ、江戶に還つて、海軍操練所の敎授に任命せられた。
 曾つて江戶に大地震ありし際、釜次郞昌平黌に在りて易經を讀んでゐた。大地掀飜、家屋倒壞、釜次郞は幸に窓より脫し得た。牛込に住する慈母の身を憂ひて、餘震激しき中を馳せて赴き、母子相擁して、共に無事なるを喜んだ。
 文久元年、幕府、留學生を選拔して和蘭に送る時、釜次郞は其選に當つた。兼て幕府から和蘭造船所に建造を委托した軍艦開陽の建造監督をも命ぜられ、內田恆次郞、澤太郞左衞門、赤松大三郞、林硏海其他と、長崎より出發して海を航した。瓜哇の北東なるプロレパル島附近に於て、暴風雨に遭ひ、船は洋中の暗礁に座して、船員等、端艇をおろして逸し去り、釜次郞等は破船に殘され、空しく數日を費してゐる內に食既に盡き果つ。
 一日、小艇の波間に泛ぶものを見つけ出したが、之れは蕃人の蕃船であつたけれど、必死の場合であるから、其危險を問ふに暇がない。近づく蕃船に躍り入りて、日本刀を擬して、人間の住む島へ導けと命じ、又團扇を與へて其歡心を求めた。蕃人、且怖れ且喜び、釜次郞等を一小島に導き、おのれ等は船を馳せて去つた、この小島は無人島であつた。炎熱甚しくして、蚊軍の襲來は晝夜をわかたず、釜次郞の困苦は眞に筆舌に絕するものがあつた。
 數日の後、蕃船數隻漕ぎ來つて、釜次郞を迎へて、プロレオ島に導いた。島の酋長から瓜哇政廳に通達し、こゝにバタビアのホテルに安着する事を得た。
 更にバタビアを出発して、洋中の孤島セントヘレナに上陸し、風雲児拿破崙の墳墓を弔ひ、喜望峯をめぐつて、和蘭アムステルデムに到着する事を得た。此航程は半歳の月日を費した。 釜次郎の和蘭留学中は、兵學、法律、化学、器械の諸學科を修学して、研究六年に及んだ。偶々モールス電信機の発明があつた事を聞き、電信機二台を購めた。又丁抹墺地利の両国間に兵端を生じたから、其實戦を視察して大に得る處があつた。頓て開陽艦竣成するに及び、之れに搭乗して帰朝の途に上る。
 時勢推移して、葵旗の威は全く地に堕ち、幕府は倒壊して了つた。明治元年、釜次郎憤発して、幕府回業を計る為に北海道に赴かんとした。時に、幕府が曩に英国に建造せしめた甲鐵艦が到着するとの報があつた。其当時、甲鐵艦は此一隻のみであるから、之れを我有に帰すると否とは其勢力に多大の関係がある。釜次郎は甲鐵艦を捕獲して我艦隊に編入する事を欲して、官軍の有とならぬ前に、之れを窺うた。それがため日々小艇を観音崎附近に派して、奪取の機をもとめてゐたが、僅に逸して了うて、甲鐵艦は官軍の戦艦に加へられる事になつた。
 茲に至つて、釜次郞全く決意を斷行する事となり、明治元年八月十九日、開陽、回天、蟠龍勝速、千代田、長鯨、咸臨、美嘉保の八艦を率ゐて、品川を脫して安房館山に泊し、自ら總督となり、開陽を以て其旗艦となした。
 釜次郞は、戰ひ克つて德川氏の政府を再興する事が出來なければ、德川氏の連枝一人を奉じて、北海道を領して、獨立國を建設するの意志であつた。
 諸艦、舳艫相含んで外洋を北航する途中、金華山沖に於て、大颱風に會した。開陽、回天は損じ、咸臨は淸水港は漂着し、美嘉保は銚子に破損沈沒し、蟠龍、長鯨、千代田、神速のみ辛らく難を免がれた。かく艦隊の組織は崩れ、戰鬪力も弱つたから、松島灣に入りて、寒風澤に上陸し、艦體の修繕する間、仙臺に滯留した。
 この時、會津方面に敗れた大鳥圭介が來り會して、釜次郞と共に北海道に赴く事を請ひ、仙臺の星恂太郞も加はつたから、氣勢新に揚り、艦の修繕もできた故、六艦拔錨して、十一月二十日の夜、函館を距る十里の鷲木に入港した。
 釜次郞は、函館、五稜郭の官兵を逐うて地を占領し、更に松前、江刺をも占領した。茲に於て五稜郭を本営とし、總裁以下の役員を選挙し、函館、松前、江刺の地に奉行を置き、政治組織をとゝのへて基礎を固めた。
 明治二年、朝廷は薩長肥其他の諸藩の兵を発して、之れを征討せしめらる。其海軍には、甲鐵、春日、丁卯、陽春等八隻の軍艦を派した。釜次郎は荒井以下の海将に命じて、之れを宮古港に襲撃して甲鐵艦を奪はしめんとして、大に闘うたけれど、其目的を達せずして還り、官軍は海陸より攻準し来つた。
 吾軍よく防いだけれど、何分衆寡の懸絶してゐるため、敵する事能はぬ上に、官軍は軍需品の補給に便があるけれど、釜次郎には之れを欠き、勢次第に蹙り来つて、遂に退いて五稜郭に集結するの止むなきに至つた。かくなつては頽勢支へ難くして、到底自滅の外に途のない窮境に陥つた。官軍の軍監田島敬蔵来つて、頻りに帰順を勧めた。釜次郎、其厚意を謝したか、降る事は肯んぜぬ。
 薩の中山良三が出降を促し来るに会して、海上萬國法二巻を手交して、此書は曾つて兵学を和蘭に修めた時に得たる貴重の書籍である、貴下に托して今之れを官軍に贈らう。我れ死すとも此書は永く皇國の益となるものであると。暗に決死の意を示した。
 良三歸つて黑田了介(淸隆)に此事を吿げると。淸隆大に感じて、書を釜次郞に送り、天下の珍書の烏有に歸するを惜みて寄贈を辱ふした事を謝し、他日必らず之れを天下に梓行しやうと約し、酒五樽を贈つて其將士を犒はん事を乞うた。五月十七日、釜次郞及び松平太郞等の隊將は、衆に諭して、我等の運命已に旦夕に迫つてゐる、吾輩は固より諸君と共に死を決しゐたが、此上、寡兵を以て大敵に當つて、徒らに無辜の士を多く殺す事は、其志とする處でない。吾輩衆に代つて其罪を官軍の軍門に謝し、潔く天誅に就かうとすると吿げた。衆泣いて答へる事ができぬ。田鳥敬三復た來つて諭したから、釜次郞等は遂に出でゝ黑田了介の軍門に降伏する事となつた。
 釜次郞等、函館より靑森を經て東京に護送され、鍛冶橋監獄に幽閉せられた。內閣の諸公、朝敵の所以に斬首の刑に處せんと議する者が多くあつたけれど。黑田了介獨り固く自說を主張して、釜次郞等の罪は固より重いには違ひないが、彼等は有用の良材であるから、寧ろ宥して國家の大用を爲さしめるがよい。諸公若し彼等を斬らんとするならば、其以前に我れの割腹するを允るせと稱して、飽く迄釜次郞等の爲に宥しを乞つて動かぬ。朝議遂に黑田の說を容れ、下獄三年にして、釜次郞等は放免の恩典に浴す事を得た。
 釜次郞出獄するや、黑田は時に開拓使長官であつた。釜次郞を招くと、釜次郞は甘んじて其下風に就き、北海開拓に盡瘁して、黑田の知遇に酬ゐた。
 幕末の頃、釜次郞、開陽の艦長として、薩艦春日を逐うた事があつた。幕府當路者に之れを阻む者があつて、釜次郞を抑止しやうとした。釜次郞憤りの餘りに、帽を破り、袖を裂いて極論し、漸く追擊する事に決した。しかし其時は已に遲くして、春日を逸して了うたが、其附屬の運送船に土佐沖で追ひつくを得た。しかし其運送船も亦沈沒し果てゝゐて、檣上に生存する鼠一匹を捕へたのみであつた。釜次郞、之れも敵の片割であるとて、部下を命じて鼠を生擒せしめ、之れを食ひ殺して了うた。釜次郞の靑年時代、或る夜、牛込江戶川端を通行すると、劫賊の刀を閃めかして脅迫するに遭つた。釜次郞亦刀を拔き、叱咤一番した。賊は驚いて刀を落して逃亡する、拾うて見ると、まさに利刀である。直に之れを古道具屋に賣り飛ばして、其金を懷にして、莫逆の友三浦甫一と共に、酒樓に上り、大に痛飮を試みた。

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