松岡磐吉 | 大山格のブログ

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実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

松岡磐吉、幕府代官江川英龍の家士。安政年間、長崎傳習所に入り、砲術航海術を學んだ軍艦組、軍艦役となる。明治戊辰、榎本釜次郞に從つて、蟠龍艦長となり北海道に赴き、官軍と鬪ふ。宮古の海戰には風波の難に遭ひて、戰に會せず。遂に幕艦の最後の一艦となり、函館に鬪ひ、殊に朝陽を擊沈して勇名を馳せた。明治二年、衆と共に降り、獄に入る。明治四年、獄中に歿した。
 明治の初め、幕府の軍艦八隻、品川灣を脫して北海道に奔る。之れ明治維新の最後の戰鬪なる、函館付近の役の起る所以である。幕軍の總裁榎本釜次郞は當時海軍の一權威者であつた、從つて之れが部下にも錚々たる海路があつた。中にも、回天艦長甲賀源吾、蟠龍艦長松岡磐吉は其勇姿永く傳へられて、其戰績は大に明治初期海軍の氣を吐く者であつた。
 磐吉は安政三年、幕府の長崎傳習所第二回傳習生として、榎本と同窓であつた。
 軍艦蟠龍は、安政五年、英國女皇から、將軍の乘船にと贈り來つたもので、エンぺロル號とて、曾つて女皇の遊船であつた。明治戊辰、八月、僚艦と共に品海を脫す、艦長は松岡磐吉、機關長加藤其。
 蟠龍の洋上に出るや、暴風雨のために航海に苦しみ、僚艦皆散亂し、蟠龍亦汽鑵を破損した磐吉海上に於て汽鑵の修理をなし得るかと問ふと。機關長は、到底企て能はざる處である、加ふるに飮料水が缺乏を吿げてゐると答へた。依つて順風に乘じて淸水港に入り、靜岡に往く態度を示して、其修理を全うせんとて。船を南に航して、安房の陸上を窺ひ、次に下田の寄港し遂に淸水に入つた。
 修理十數日、漸く錨を拔いて出港したが、又もや風濤高いために、伊豆阿羅利港に碇泊した港は巴狀形をしてゐるから、外海から其港內を視る事ができぬ。此ために難破して淸水にゐる幕艦咸臨をば擊たんとして、進航し來つた官艦の目を遮る事ができて、幡龍は見出されずにすんだ。咸臨は官艦に襲擊され、死屍累々の慘狀を呈した。
 九月十八日、蟠龍は仙臺領東名に入津し、僚艦と共に舳艫相銜んで、十月二十日、北海道鷺ノ木に着いた。之れより翌年四月まで、函館港內に於て激戰九回、其外に松前及び福島の砲擊に從うた。
 明治二年三月の宮古海戰には、回天、高雄と共に、蟠龍も參加する事になつて、三艦共に函館を出でたが、途中又もや暴風雨に襲はれて、三艦分散し、蟠龍は遂に海戰に加はるの機を失うて了うた。
 宮古の海戰には遲れて其勇を示すこと能はなかつたけれど、爾後の海戰に於て蟠龍の健鬪を見ぬ事はない。殊に五月四日の函館灣內の戰鬪には、幡龍、回天の二艦を以て、官艦の精銳五隻と戰うた。幡龍には一彈が命中して其運轉に自由を缺いたけれど、尙屈せぬ。既にして回天は敵彈八十餘發をうけて、重要機關部を損じ、淺洲に乘あげて、浮臺場と化し終つた。蟠龍はよく回天を援けて、自ら損處を修理して、官艦を逐うて、退却の餘儀なきに至らしむ。
 幕軍は曩に開陽を喪ひ、今復た回天を失うて、唯蟠龍一隻を以て海を護るのであつた。磐吉の任愈重く、磐吉の意氣益健剛であつた。五月十一日、官軍海陸竝び進んで、函館及び五稜郭を猛擊した。幕軍大に苦戰したが、海上に於ては、幡龍一隻を以て敵の五艦に當り、縱橫奮戰其勇猛さを以て、彼我をして驚かしめた。
 磐吉、艦長として、始めより檣樓に立ち、望遠鏡を把つて、指揮をしてゐた。蟠龍の砲手永倉伊佐吉が放つた一彈は、官艦朝陽の右舷を貫通して、彈藥庫に中り、大爆音を發して、二分時を經ぬ間に、全艦沈沒し、纔に舳部を水上に現はすのみとなつた。朝陽艦長中牟田倉之助、重傷を負ひ、溺死者五十六名。この朝陽は官艦中でも、常に勇敢に戰つた艦であつたから、幕軍之れを望んで大に歡聲を揚げた。
 磐吉亦銳意を振ひ、發砲猛射、能く官軍と鬪うたが、夕刻に至つて彈藥盡き、火藥庫內既に一物なきに至つて、敵の逼らざる間に、壘下に避けた。今は機關の損處のため運轉不如意となつてゐる。遂に淺瀨に乘揚げて、乘員は悉く上陸して了うた。內に永倉伊佐吉は、海岸から輕舸を取り來らんとして、海中に躍り入り、途中に病起りて、殆んど陸に達する頃溺死した。
 朝陽爆沈するや、官艦甲鐵にゐた海軍參謀曾我準造(祐準)は、中牟田が死したものと思ひ偶甲鐵の士官に朝陽艦長の弟がゐたから、令兄の仇はあの蟠龍である、蟠龍今岸膠して、彼處にある、乘員は悉く退去した、令兄の仇を燒き拂つて恨みを報ひ給へと敎へた。士官欣躍して蟠龍に放火し、回天も此時燒かれて了うた。
 函館の變終つて後、英人某、半燒の蟠龍を得て、上海に回航して大に修理を施し、再び日本に運び來つて、開拓使の御用船となし、雷電丸と名づけた。後又、橫須賀に屬して軍艦となり廢艦の後は捕鯨船の任務につき、更に尾張熱田汽船會社の有ともなり、老朽全く用を爲さゞるに及んで、明治三十年、大阪木津川に於て解體せられた。
 磐吉は、艦を捨てゝ上陸し、函館の敵陣を突破して辯天砲臺に入つた。陸には既に戰ひに敗れて吾軍五稜郭に蹙み、海には又た一艦もなくなつてゐる。こゝに於て官軍の海陸兵は競うて攻める。
 幕軍遂に降伏し、磐吉また東京に護送されて、糾問所の獄に投ぜられた。獄は一棟を七室に分ち、領袖株の榎本釜次郞、松平太郞、永井玄蕃頭、荒井郁之助、大鳥圭介、澤太郞左衞門と磐吉との七人が牢名主であつた。磐吉、獄中に疾んで甚だ重態となつた。十月に入りて殊に病篤く、衰弱して運動も意に任かせぬやうになつた。倂し一時は恢復し、壁を隔てゝ他房の吾士に對して英語を敎授してゐた事もあつた。然れども疾再び發して、他の六將は遂に出獄して白日を見たが、磐吉のみ獨り獄中に歿した。

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