『銀のしずく降る降る・・』知里幸恵の白い足跡(前) | ビリケンのブログ

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知里 幸恵(ちりゆきえ)


1903年(明治36年)1月15日北海道登別にアイヌ人の長女

として生を受ける


この濁りのない涼やかな名前を記憶している者は今では

極わずかであろう・・


この赤子が19年の後、一冊の本を紡ぐ・・


『アイヌ神瑶集』は本文22頁の素朴な童のような

愛らしいひとくくりである


祖先から語り継がれた13篇の神々の物語が静かに

寄り添っている・・


限りなく心に響き揺さぶるのは『序の語り』である


過去、あまたの書籍に親しんできたが、かつてこのような

崇高な文字の流れにふれたことはなかった・・


心無い省略をも許さぬ凛とした佇まい・・

無垢なる少女の言霊を汚すようでどの部分も削ることが

できなかった


遡ること一世紀、果ての国の大自然とアイヌ民族の

原風景が色濃く漂う時代の静かな叫びである





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『序・・原文』



『其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由の

 天地でありました。

 天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて

 のんびりと楽しく生活してゐた彼等は、真に時代の寵児、

 何と言ふ幸福な人たちであったでせう。


 冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴って、天地を凍らす

 寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、

 夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に

 木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、

 

 花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀づる

 小鳥と共に歌ひ暮らして蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は

 野分に穂揃ふすすきをわけて、宵まで鮭とる篝火も消え

 谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。


 嗚呼何といふ生活でせう。

 平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は

 急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に

 開けてゆく。


 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野辺に

 山辺に嬉々として暮らしてゐた多くの民の行方も又何処。


 僅かに残る私たちの同族は進みゆく世のさまにただ驚きの

 眼をみはるばかり。

 

 而も其の眼からは一挙一動宗教的観念に支配されてゐた

 昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち、

 不平に燃、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲に

 すがらねばならぬ、あさましい姿、


 おゝ亡びゆくもの・・・それは今の私たちの名、何といふ

 悲しい名前を私たちは持ってゐるのでせう。


 其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土がすえに

 かうした惨めなありさまに変わらうなどとは露ほども

 想像し得なかったのでありませう。


 

 時は絶えず流れる、世は限りなく進展ゆく。


 激しい競争場裡に敗残の醜をさらしてゐる今の私たちの

 中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら

 進みゆく世と歩をならべる日もやがては来ませう。


 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈ってみる

 事で御座います。

 けれど・・・愛する私たちの先祖が起状す日頃互に意を通ず

 る為に用ひた多くの言語、言い古し、残し伝へた多くの

 美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく

 弱きものと共に消失せてしまふのでせうか。


 おおそれはあまりにもいたましい名残惜しい事で

 御座います。

 アイヌに生まれアイヌ語の中に生ひたつ私は雨の宵雪の夜

 暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じた

 いろいろな物語の中極小さな話の一つ二つを拙い筆に

 書き連ねました。

 


 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が

 出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんたうに

 無限の喜び、無上の幸福に存じます。


 大正十一年三月一日           知里幸恵   』





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(導かれし者たち・・)

人と人との出逢い・・分けても後に大輪の花を咲かせる

覇業を成し得た者たちのそれは決して偶然でない

必然・・大らかな天の意思によって導かれたものなのだ・・


この物語を織り成すもう一人の人物

金田一京助(きんだいちきょうすけ)


1882年(明治15年)岩手県盛岡の地で旅館を営む家の

長男として生を受け、後に東京帝国大学の言語学科に学ぶ


日本の言語学の草分けで、民俗学、アイヌ研究の第一人者

でもある

彼の成し得た研究は『金田一学』と総称される


盛岡中学の同級生で『銭形平次捕物控』で知られる

野村胡堂(のむらこどう)は終生の友で、彼が亡くなった

折には葬儀委員長を務めた


石川啄木は二年後輩にあたり、彼の東京での生活は

京助の援助で保たれていた

胡堂はは短歌や俳句の手ほどきをしたと伝えられる






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(信仰と家族・・)




幸恵を語りふれるとき、敬虔なキリスト教徒だった

いうことが重きをなしている


母のナミと、後に養女となる伯母のマツの姉妹は

若い頃、函館の伝道師育成の場である

『愛隣学校』に学んだ


互いの手紙のやり取りや、子供たちに送られた手紙は

アイヌ語をローマ字でしたためられていた

この語学の素養はこの時代に身につけられた

ものである・・


このような環境のなか幸恵も自然と信仰の道を

歩んでいた・・


父の高吉は『登別温泉』を拓いた実業家の滝本金蔵の

もとで働いていた

そこで日本語の読み書きや算盤を仕込まれた


大勢の和人のなかにあって、その才能は傑出して、金蔵は

おおいに可愛がり重要な書類の作成を高吉に任せた


京助は『発展的で進歩的な人物であった・・』と評している


馬牧場や農業を営み、当時としては比較的裕福であった


4歳下の弟の高央(たかなか)は、現・小樽商業大学を

卒業して教育者となり「アイヌ語イラスト辞典」などの

著書を残している


6歳下の末弟の真志保(ましほ)は幸恵の想いを引き継ぎ

後に「アイヌ学」と呼ばれる分野の学問を築き上げた

室蘭中学を優秀な成績で卒業したが、すでに家業は衰え

貧困のため進学を断念して地元の役所に勤めていた


真志保の才を惜しんだ京助は東京へ呼び寄せた・・

東京帝国大学を8番目の成績で合格した

(文学部言語学科)


指導教授は京助であった・・

後にアイヌ人初の北海道大学教授となる



(海を離れて・・)


1909年(明治42年)

幸恵は旭川の近文(ちかぶみ)で伝導所を営む伯母

金成(かんなり)マツの養女となり故郷を離れたのは

6歳の秋であった


旭川駅が近く、石狩川が悠々とたゆたう土地である


マツは幼い頃に高所から落下して腰を痛めたのが原因で

日常的に松葉杖が必要であった

洗礼名のマリアから「松葉杖のマリア」と呼ばれて親しまれた


この不自由のため生涯独身であった

手芸に秀で、文学を愛する静かな女性であった


そしてもう一人・・京助が

『私が出逢った「ユーカラ」の語り部で最初で最大の

 吟遊詩人でした・・』と賞賛した祖母のモナシノウクと

質素だが満ち足りた生活を共にした


残りの季節の13年をこの土地で慣れ親しんだ・・


ある日の両親への手紙である


『日本晴れの好天気で、涼しい春風がサッサッと袂を払う

 心地よさは何ともいへないほどです・・

 朝晩一里半近くずつあるいて居ますので身体が至極

 達者で・・』


幸恵は小さな身体で職業学校の3年間を片道6キロの

道を休むことなく来る日も来る日も通ったのだ

吹雪の冬の辛さは・・


『夏休みが楽しみです・・もう六十七日ありますね

 その間私はほんとうに奮励努力しなければなりません

 学期末にはどんな成績が発表されますやら・・


 お土産のお伽話種々様々なおはなし、それから歌って

 聞かせて上げる唱歌などをどっさりとためてゐます・・

 どうしてどうして二年ぶりですもの・・


 今年もグスべり(グーズベリー)が沢山食べられるように

 祈ってゐます・・

 私は海が懐かしくてなりません・・四方が山ですから

 何処を見ても木ばかり草ばかり家ばかり

 見渡す限り果てしない上川平原はそれはそれは良い景色

 ですけど・・海がないのが何だか物足りないような

 気がいたします・・』


幸恵は故郷の海へ想いを飛ばした・・




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(その一夜・・)


1918年(大正7年)

この年、蝦夷が北海道と改められてから50年目の節目に

あたっていた・・札幌・小樽で大々的に「北海道博覧会」が

開催されていた


「近文伝道所」はわずか14坪ほどの小さな木造の平屋

であった

その古びた玄関に京助が佇んでいる数匹の蝉の名残の

声が静かに染み入る夕暮れどきであった・・


背中から「ただいま~」と真っ直ぐな声が聞こえた

振り向くと、リスのような眼をキョロキョロさせて

幸恵が立っていた


この時、京助36歳・・幸恵15歳・・

雪あかりのような仄かな出逢いが果てには恵や救いの

太陽となって光り輝くのだ・・


京助は祖母のモナシノウクのユーカラを聴くために夕立の

ように突然訪れたのである

「金田一京助!」ですといきなり名乗られてもどのような

素性の人物なのか知る由も無かった・・


取り敢えずは招き入れて火の気のない夏の囲炉裏を

囲んだ・・手土産の菓子でとりとめのないよもやま話を

するうちに、初対面とは思えぬほどに打ち解けていた


気が付くと旭川行きの最終便がでた後であった

駅までは4キロで歩いて行ける距離であったが

引き止めたのは家の主であった


マツは幸恵が恥ずかしがるのをよそに、成績表や

習字、作文などを京介に披露した

それを見て思わず唸った!この少女は白眉の才媛

であった・・


特に作文の完成度は並々ならぬものがあった

流麗な文章で美文であり、誤字や文法の乱れが

ひとつも無かった


話を聞くとアイヌ語の古辞や古文に通じ、マツや祖母から

聴かされたユーカラ(叙事詩)をすべて暗記していたの

である

アイヌ民族は文字を持たない・・

朝な夕なに聴かされるユーカラが伝承方法であり

幼き頃は子守唄として心地よく耳に遊ぶのだ・・


幸恵は職業学校を110人中4番目の成績で入学

していた

京助は胸の裡で叫んでいた・・

(この子はアイヌ民族の誇りと神様が育ててくれた

 尊い萌なのだ・・どこまで伸びるものか・・!)


心地良い興奮で眠れぬ夜が明けた

京助は幸恵に、思いの言羽を渡した


『学校を卒業したら東京へ来て僕の研究を手伝って

 ください!アイヌ民族は決して劣った民族では

 ありません!素晴らしい文化と伝承を持った

民族なのです・・』


この瞬間ふたつの夢が重なった・・




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               (幸恵とマツ)


(その日まで・・)


「近文の一夜」から幸恵が東京にふれる日まで

後4年あまりの季節を見送らねばならなかった・・


卒業の頃に心臓病が悪化したのが最たる原因だが

限りない愛着を宿した故郷を離れることに、思いは

止まらぬメトロノームように揺れていた・・


幸恵の19年の生涯は差別との闘いと葛藤の日々であった


最初の学校はアイヌの子供だけの粗末な施設で

通称「土人学校」と呼ばれていた


職業学校に入学する前年に「北海道庁立旭川女学校」を

受験するが結果は思いもよらず不合格であった

その直後にある噂が流れた


(彼女は最高点を取ったが、アイヌ人でキリスト教徒

 だったから落とされた・・)


幸恵の学力で落ちることは有り得なかった


職業学校の初日


『ここはあなたの来るところでは無いのよ・・』


氷のような同級生の言羽に泣きながら家路を辿った・・


どこで芽生えても・・どこで生きても・・花は花・・人は人

それ以外のなにものでもない!


何故それは紛れもない「個性」だと思いやる心を持つ

ことができぬのか・・


同じように、天の恵のしずくで喉を潤し・・透明な宇宙の

大気から生まれた風を食む「地球人」なのだ・・


京助は遥かな東の地から幸恵を頼った


ユーカラを文字で表すには、アイヌ語をローマ字で綴り、

それを訳すという方法が最良であった


(私はローマ字は読むことは読めますが、書く事が

 出来ません・・学校では教えてくれませんでした・・

 いま一生懸命勉強していますが、なかなか難しいです・・)


おそらくローマ字に堪能なマツからも手ほどきを受けたと

思うが・・東京からも京助も書欄で指導した


ここでも幸恵の非凡な才能が花開いた!


何とわずか数ヶ月でローマ字を会得したのである

そして京介を驚愕させたのが幸恵が自ら考案した

合理的な文法や表記法の開発であった


(何という才の人なのだ・・!)


1922年(大正11年)5月

歴史は幸恵を東へと運んだ

心臓病を抱えたままの旅たちであったが、何が

幸恵を動かしたのだろうか・・


巣立ちは故郷の室蘭港から青森行の貨客船「京城丸」

であった


この時の心境を両親に送った手紙が・・


(京城丸の後甲板に立って次第々々にはなれてゆく

 小舟のお母様と白いきれをふって別れたその時の

 心持ちは何と云っていいでせうか・・


 カラカラといかりをまきあげて船が黒い煙をのこして

 出帆した時、堪らないほど心細くなったんでした・・

 打ち見やる岸辺の何処かでお母様が見送ってゐて

 下さるかしらと思って、いくら目を見はっても

 なんにも見えないし・・


 だんだん遠くなって室蘭の船の直後にたったり

 右手に見えたり左手になったり・・)


二度と生きては帰ることが出来なかった故郷の海に

泪波を残して東へと船は泳いで行く・・




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(終着駅・・)


早朝・上野駅・・


登別の実家を出てから、延々40時間あまりの

長旅であった・・

恐る恐る汽車を降りると弾けるような笑顔の京助が

そこにいた・・およそ4年ぶりの再会であった




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      (当時の上野駅)




(優しくお疲れでせうと云われた時に涙が出るほど

 嬉しう御座いました・・手荷物札を渡すと取扱所に行って

 受け取って下さいました・・そして人力車の切符二枚買って

 私は大威張りで先生と俥に乗る。


 人通りが少なく大概の家では戸を閉めてゐるのです・・

 東京は夜が遅いから朝も遅い・・)


都会の目覚めの遅さに驚いた・・

手紙の後半では金田一家の様子にもふれている


現在の文京区本郷四丁目付近で、家の前を名所の

「鐙坂(あぶみざか)」がなだらかな傾きを見せている


(家は平屋の広くない家です。お座敷が一つ、先生の

 書斎が六畳間、お勝手が一間半と一間半くらいで

 庭は二間半くらいで、こんな広い庭はめったに

 ないのだと云うお話です。

 

 夜は私はきくやと云う盛岡から来た、人のいい女中さん

 と茶の間で寝るのです・・

 お母様の角巻と夜被着てゐます。


 今度、先生の書斎に大きな机があって誰も使はないから

 これをあなたの机と決めませうと先生に云はれて、

 此の手紙も其の上で書いてゐるのです・・)


幸恵の日常は、すでに出版が決まっていた「アイヌ神謡集」

の編集や校正に費やされた


(私が十年わからずにいた難問題を幸恵さんに聞くと

 袋の中の物を取り出すように立派に説明してくれる・・

 その頭脳のよさ・語学の天才だったんです

 天が私に遣わしてくれた天使のような女性でした・・)


ある時は


(アイヌ語の動詞に複数形があります。ですから私は

 十人のアイヌがこうやったと、その複数系を使うと

 誤りはないはずなのに、いつでも必ずなおされる。


 幸恵さんは笑って云うのです

『先生、十人とか二十人とか、はっきり一人じゃないと

 わかっているのに複数形を使うと、馬から落馬したとか

 被害を被った、という言い方と同じです!

 ですから私は馬から落ちたとなおし、被害があったと

 いうふうになおすのです・・』

といって、その例をいくらでもあげてくれました・・

そして、ヒマヤラ山中の二、三の種族などもそうだが

アイヌ語もそうだったのかと、すっかり感服

したものです・・)



このようなやり取りの時間は二人にとって至極の

空間であったろう・・


夏の歩と共に幸恵の身体に悪しき兆しが漂いはじめた・・


(先生と坊ちゃまのお供をして博覧会に出かけた・・

 目がまはりそうなところ・・くたびれてくたびれて

 物言う事さへ億劫になってしまった・・)


8月に入る頃、京介に告げた


『私は帰村します・・』


問いただすと


『何だか・・自分の病気が抗進して、ごめいわくをかけは

 せぬかと云う気遣いからです・・ただ・・その為です・・』


京助は優しく諭した


『それなら尚のこと、こちらにも医者は沢山あることだから

 留まって治療をすべきでしょう!』


幸恵はその思いやりにすがった・・


日を置かず大学病院で診察をした結果


<二三日は絶対安静を要す・あとは自然癒るべし・・>


診たての通り、ほどなく小康を得た


幸恵は感謝の思いを素直に伝へた


『私は今日まで、自分の親のの許でなければ死ねないと

 思いましたが、今こそ、何処の里でも安心して死ねます・・

 この間本当に出立つしなくてようございました・・

 出かけていたら、青森あたりで死んでいた

 かもしれません・・』


9月14日には絶筆となる便りを両親に送っている

自分の病気の事で心を痛めるのを心配して

面白可笑しく表現している


(かわいさうに、胃吉さんが暑さに弱っているところへ、

 毎日々々つめこまれるし・・腸吉さんも倉に物が一ぱい

 たまって毒瓦斯が発生するし・・しんぞうさんは両方から

 おされるので、夜も昼も苦しがってもがゐていたが・・


 やりきれなくて死に物狂ひにあばれ出して・・

 それでもこんなによくなって感謝の至りです・・)


後文は幸恵なりの小さな予感があったのだろうか・・

純粋な、家族への甘えと望郷の想いが・・


(私も折角の機會ですからこれを逸せず、もう暫くとどまって

 一年か二年、何か習得して帰りたいことは山程で

 今頃病気だなどとおめおめ帰るは、涙するほどかなしう

 ございます・・


 然し御両親様、神様は何を為させやうとして、此の病気を

 与へ給ふたのでせう・・

 私はつくづく思います・・私の罪深き故かすべての

 哀楽喜怒愛慾を超脱し得る死!

 それさへ思出るんですが・・


 今一度幼い子にかへって御両親様のお膝元に

 帰りたうございます・・

 そして、しんみりと何を為すべきかを思ひ、御両親様の

 御教示を仰ぎたく存じます・・半年か一年ほど・・

 旭川のおっかさんは許してくれる筈です・・)



大正11年9月18日


京助の追憶を借りる


(今思へば顔色のすぐれない幾日が続きました18日です

 「少し風邪気味のようです・・」と云って居られたましたが、

 でもちっとも常と変わったことはもなく、三度の食卓も

 一緒にやって、間々「アイヌ神謡集」の原稿をし了えて

 から急変してしまったのでした・・


 近所のお医者が注射を勧めたら

「それは最後の手段だそうですね、私はまだそれを

 したくありません!」とハッキリことわって・・間もなく

 

あまり悪いの、で私が大学のH博士を請じている間に

とうとう心臓麻痺を起こされて、私がびっくりして

幸恵さん!幸恵さん!と連呼した時に、二度返事を

して・・それっきり・・)


19年間・・小さいながらも灯し続けた線香花火の糸螢は

静かに消えた・・


翌日の根津権現の秋祭りに遊ぶのを、子供のように

楽しみにしていたと伝へられる・・






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 続きは同タイトル(後)で・・


 コメントもそちらからお願い致しますm( __ __ )m