荒井郁之助 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

荒井郁之助、幕府代官淸兵衞顯道の子、諱は顯德、天保七年を以て生る。昌平黌に學び、安政四年、軍艦操練所に入り、航海術を修め、擢んでられて其敎授となる。文久元年、江戶灣を測量し、又小笠原島に航した。尋で操練所頭取に進む、後に、講武所取締に轉じ、海軍奉行に陞る。明治戊辰、郁之助、榎本釜次郞と志を合せ、北海道に走り、其軍の海軍奉行となつた。宮古の海戰には司令官の任に就く。明治二年、榎本等と共に降伏し、投獄の後、赦されて開拓使出仕となり、主として農耕の道にいそしむ。爾來育英の業を勵み、又、氣象臺長ともなつた。明治二十六年、浦賀船渠株式會社を設立した。四十二年七月十九日、七十四歲にして歿した。
 幕末に際して、海軍の將校は多くは放縱な生活をして、豪快を以て相誇るの氣があつた。或は折花攀柳の風流を衒ひ、或は行酒遊宴に耽けるの傾きがあつた。郁之助、這間にあつて謹惧身を持し、頗る他の敬愛の情をひいた。當時、國家多事で、大官の往來、軍器の運輸等、槪ね海路に由るの慣ひがあつたが、郁之助、常に船長となつて、善く之れを處理した。
 萬延元年より始め、翌文久元年に至つて完成した江戶灣實測圖は、郁之助の關與したものである。また文久二年、外國奉行水野筑後守の小笠原島に渡航するに臨み、郁之助は運送船千秋丸に搭じて從ひ、島を視察して歸つた。
 明治戊辰、榎本釜次郞等と北走するに及んで、郁之助は艦隊の司令官として開陽(艦長澤太郞左衞門)に座乘し、開陽の江差沖に於て坐礁するや、回天を以て之れに代へた。又、軍の主腦者を投票を以て選んだ時、郁之助、海軍奉行に擧げられた。
 宮古の戰鬪には、司令官として、旗艦回天に搭乘し、艦橋に在つて戰を督した。既にして官艦甲鐵を襲ひ、舷々相摩して接戰する時、甲鐵よく禦ぎ、四周の七艦悉く吾回天を射擊し、吾軍死傷相踵ぎ、遂に甲鐵艦の奪ふべからざるを覺つて、郁之助は後退の命を下した。回天艦長甲賀源吾、司令官の命を傳へんとする折、敵彈飛來して、甲賀は壯烈な戰死を遂げた。こゝに及んで、郁之助、自ら機關室に後退を命令して、甲鐵を離れて港口に向うた。舵取水夫小頭を顧みて、よく舵を取れと命ずるや否や、飛彈、舵取を斃す。郁之助直に舵を取り、突嗟の急に其方向を失はしめぬ。ついで水夫頭馳せ來つて、司令官に代つて舵を取り、漸くにして港頭を脫して還るを得た。
 爾來、郁之助は旗艦回天にありて、海軍を督して、各所に轉戰したが。明治二年五月、函館灣の戰鬪に多數の敵彈をうけて、回天は破損し、殊に機關部をうたれたから、修理の手段に盡き、港內適當の位置を選んで淺洲に乘りあげ、浮臺場となし、砲十三門を悉く片舷に備へて、官艦の來襲に應ずる事にした。
 五月十一日、官軍大擧して攻め、函館は遂に官軍の有に歸した。之れによりて回天は腹背から砲彈の雨を浴び、殆んど支へて戰ふ能はぬの窮境に陷つた。郁之助、遂に輕舸に乘じて、回天を離れ、一本木に上陸して五稜郭に入つた。此日の戰鬪、幕艦蟠龍一隻を以てよく數隻の官艦と鬪うたが、幡龍も亦座洲して、其夜、回天、蟠龍共に官軍の手によつて、火を放たれて燒かれた。これで海上遂に幕艦の片隻もない事となつた。
 勢蹙りて最早官軍に抗すべくもない。官軍の勸降に應じて、榎本釜次郞、松平太郞、大島圭介及び郁之助の四首領は衆に代つて屠腹して罪を謝し、其兵衆を刑せざるを請うて、四將出でゝ軍門に降つた。
 郁之助等は、熊本藩兵に護られて東京に送られ、糾問所の獄に投ぜられた。糾問所はもと舊幕時代には、大手前步兵屯所と唱へたもので、郁之助は大島圭介と、每日出勤して陸軍の事を處理してゐた場所であつた。曩には出入する每に、番兵數人整列して、銃を捧げ敬禮して、郁之助等を送迎した處であつたから、郁之助、大鳥と相顧みて今昔の感にうたれた。
 郁之助は海將であるが、水泳をよくせず、却つて鎗に長じてゐた。倂し平常は遜つて片鱗をさへ現はさぬ爲に、之れを知る人少かつた。曾つて其邸に賊が侵入した。郁之助、起つて長鎗を揮ひ、大喝叱咤して賊を逐ふ。其氣勢の猛き、家族等も始めて郁之助の雄姿を見て愕いた。
 郁之助、人爲り、寡言にして倂も護遜に過ぐる態度を持してゐた。人の宮古海戰の猛襲を問ふと。僅に、あの時は何が何やらサッパリ解からぬほどの激戰であつたと、答へるのみであつた。
 又傳へて謂ふ。脫走軍の主要幹部を投票する時、總裁の任には、榎本釜次郞最高點の如く結果づけられてゐるが、實は彼の時に、郁之助が有勢であつたけれど、謙遜家の彼れは、之れを避けて、榎本に讓つたのであるとの說もある。
 郁之助、辭儀凡て慇懃で、如何なる者に對しても挨拶叮嚀を極めてゐた。又洒を嗜まず、甘味を愛して、五稜郭に在る頃も、常に汁粉を食べて軍を勵ましてゐた。
 郁之助、明治政府から、海軍少將に任ずるの內命があつたけれど、之れを固辭したとの說がある。却つて初めの氣象臺長となつた。郁之助、頗る科學的才能と其趣味があつたから、曩には海軍や航海の事を司り、後には測量課長となり、復た氣象の事に携はつたのである。其外、英和辭書の編、工業新報の刊、地理說話の著、測量新書の譯等がある。

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