日が暮れると、あたりは真っ暗に。

町全体が停電していて、電気がついていたのはわずかな自家発電があるうちの職場だけになった。


周囲の町民が、光を求めて、安心を求めて集まってくる。

そしてみんな、携帯の充電をし始めた。

うちの自家発電が切れるということは、そのまま患者さんの命に直結する。

事務の方々は、充電はやめてくれと言い続けていた。でも、中には延長コード持参で、充電目当てでくる方もいた。

たちまち、自家発電の維持が難しくなってきた。

事務長や事務の方々は、自家発電に必要な軽油を求めて暗闇の中、ガソリンスタンドを走り回ったという。


そんな中、病棟は気持ち悪いくらい静まり返っていた。

みんな、疲れ果てていた。

トイレの水も流れないから、簡易トイレにおむつぱっとを入れて、たまったらそのぱっとを捨てる方法に切り替えた。

日勤からずっと仕事をし続けていた職員の方々に横になってもらい、地震後に職場にきた一個上の先輩と二人、ステーションで片付けや明日以降の準備をしながら過ごしていた。


家族から連絡はない。祖父母の安否が気になって、双葉の避難所すべてに電話をかけたが、登録がないといわれてしまった。一つの避難所からは、「あぁ、あの元気な●●さんでしょ?!あの周辺は被害がひどかったから…無事だといいんだけど…」と言われた。もう、祈るしかできなかった。


暗くなってから、患者さんが運ばれることもなく、安定剤が効いてきたのか患者さんも少し落ち着いたので、少しずつ自分の時間が持てるようになった。


ずっと、電話をかけ続けた。双葉の、祖父母の家に。でも、ずっとつながらなかった。

先輩のアイフォンだけ、ネットにつながることがわかった。

当時からやっていたTwitter、Mixiに無事だと一言書き込んだ。

先輩が見せてくれた、東京タワーの状態を見て、血の気が引いた。


深夜0時半頃、やっと、やっと祖父母の家に電話がつながった。


祖母が、出た。

「まぁか?!!お母さんから無事だってことは聞いてたんだ!あそこらへんも津波の被害すごかったからなぁ。大変だっただろ??ばあちゃんたちも、ケガねぇからな!いや、早く寝なきゃって思ったんだけど、余震すごいからねれねぇよね。とにかく、ばあちゃんたちは大丈夫だからな!!まぁちゃん、大変だろうけど、看護師さん頑張ってな!落ち着いたら、迎えにいくかんな!!頑張るんだぞ!!」


電話が終わって、震災後、初めて、泣いた。 

師長が「ごめんね、ごめんね。ありがとね。帰りたかったよね。ごめんね。」と一緒に泣いてた。



もう、大丈夫だと思った。家族みんな生きてる。よし。明日はもっとたくさんの患者さんがくる。

頑張ろう。大丈夫。頑張る。


この日が、一番大変だと思ってた。


でも、3月12日。すべてが狂い始める。