何人が流されて、何人助けることができたのか。
津波がこれだけひどかったということは、じいちゃんばあちゃんの家は大丈夫なのだろうか?
東京も電気が止まったという。両親は?姉ちゃん夫婦は?友達は??
原町の老人ホームが崩れて、何人も生き埋めらしい。
小高は津波で全滅だ。
富岡駅が流された。
双葉の中心街で、何戸も家がつぶれた。
時間がたつにつれ、少しずつ、情報が入ってくる。
でも、電話がつながらないから家族の情報がわからない。
家族の安否を知りたい。でも、今苦しんでいる人たちの看護をしなくてはいけない。
でも、じいちゃんばあちゃんは私が守らないと。
でも、ここにいる人たちも守らないと。
泣きそうだった。でも、泣いてる暇なんてなかった。
目の前で幼いわが子が津波に襲われ、パニック状態になってる若い女性。
足に木が突き刺さって意識がもうろうとしている中、「家族に生きているって伝えて」と繰り返し言う男性。
「おかあさ~ん!」と30分ごとに叫ぶ、津波にのまれ呼吸状態が悪化している20代の警察官。
救急車は、電話が不通なので連絡なしにどんどん患者さんを運んでくる。でも、もう診るスペースも機材も薬品も足りない。でも、断ることができない。
ひたすら走り回って、時間は6時を回っていた。
師長が、静かに言った。
「子供がいる人たちは、家に帰りなさい。子供たちが心配してる。六号線の一部が津波でやられてるみたいだから、無理はしないで。いない人は申し訳ないけどもうちょっと手伝って。」
その通りだと思った。職員にも、家族がいる。私は幸い、独り者。私は残らなくちゃいけない。そう思った。
双葉町の職員さん二人が、
「まぁちゃんのおじいちゃんおばあちゃんの家に寄って、電話するからね」と言ってくれた。
とにかく、連絡を待つしか、なかった。
一人の職員が、ラジカセを引っ張り出してきた。乾電池を見つけ出して、ラジオをつけた。
NHKラジオは、おもに宮城のことを中心に言っていた。言葉だけだし、何より仕事しながらだから詳しく聞けない。でも、日本全体が大変なことになってることは、なんとなくわかった。
仕事の合間を縫って、電話をかけたら奇跡的に姉につながった。
姉にとりあえず無事を伝え、両親に伝えてもらうようお願いした。祖父母の安否を知りたかったが、姉もまだつかめていなかった。父・義兄の無事はわかったが、母も無事がわからない。
とりあえず、病院の番号を伝え何かあったらこちらに電話するよう話した。
あとからわかったことだが、メールは送信完了しました、と出るから関東の家族はみんな私にメールで情報を送り続けていたらしい。
でも、私がそのメールを全部読んだのは、避難が完了した2日後のことだった。
災害時、被災地にメールは確認できないからやめたほうがいいと思う。つながりにくくても、電話のほうがいいかと。
しばらく時間がたって、双葉に帰った職員から電話がきた。
「ごめんねまぁちゃん。駅近くまで車で向かったんだけど、倒壊している建物が多くて通行不可になってたの。だからわからなくて…ごめんね。本当にごめんね」
祖父母の家も、倒壊してるに違いないと思った。今頃、寒空の下生き埋めになってるのかと思うといてもたってもいられなかった。
でも、双葉に行く手段がない。目の前にはたくさんの患者さん、苦しむ被災者がいる。
自分の家族を優先するわけには、いかなかった。
きっと、大丈夫。絶対、大丈夫。そう言い聞かせて、仕事に戻った。
携帯は、ずっと白衣のポケットに入れたままにしてた。
手はずっと、震えてた。