猪谷宗五郎「元帥大山巌」04 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
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元帥が少年隊時代の洋式調練昔物語
 照國公が和蘭式に據つて、八九歲より十二三歲頃までの少年隊を組織せられ、之れに軍事敎鍊を施されたのであるが、此の可憐なる少年隊が筒袖に立揚を著し、白鉢卷で白襷を懸けて 木銃を肩にした其の扮裝は、實に雄々しくもあり、又末賴母敷くもあつた。每月一六の日を式日と定め、指揮官隊長等法の如くで、公親しく二三人づゝを點呼せられ、更る〳〵其の技を檢閱し給うたが、元帥も其の訓練を蒙れる一人であつたのである。元帥の竹馬の友で而も少年隊仲間の湊川甚之丞翁の直話に
余と元帥とは同じ加治屋町生れであつたから、每々一緖に御呼出を受けて、二之丸外御庭の調練に罷出でた、或日上樣(照國公)には、御庭內の御茶屋に入らせられ、御机に憑つて、御書き物遊ばしつゝ御覽 ぜられたが、其の隊中に少しく步調を紊したものを御氣付かせ給ふや否や、天地に響かん許りの大音聲で、而も銳く御叱責されて、直に之れを正さしめ給ふたのであるが、一同年少ながら上樣が御聰明に在し在して、軍事を重んじ給ふに感激措く所を知らなかつた、斯くも上樣が御熱誠を籠めさせられて、御奬勵遊ばされたから、いづれも感奮興起し、調練御呼出しと云へば、何は差措いても相競うて馳せ參ずる狀は、さながら敵國外患でも今間近に迫り來たかのやうであつた云々、
あゝ實に熾なりと謂ふべきである、彼の明治の名文相森有禮子が、始めて諸學校に兵式體操を課したる先見卓識は、今尙ほ人口に膾炙する所であつて、是れ或は泰西の制度に準據したものでもあらうが、今を距る七十有餘年前に於ける照國公の少年隊組織の事ども追憶せられて、感慨轉た無量なると共に、如何に元帥が其の幼少の時よりして、軍隊調練に心力を注がしめられ、又自らもいそしまれたかを見るべきである。一體當年の調練と云へば、御國許では二之丸の外御庭や、甲突川尻砂揚場及び磯御假屋下濱、江戶表では澁谷御屋敷などで行はれて、甚だ熾んであつた、此の澁谷御屋敷調練の折に、最とも面白き插話があるから、次に揭ぐることゝする。
澁谷で調練をせらるゝ時は「ヒド」かつた、始終である、騎兵をやるとか、さうして夥多人數の札を御自分で前に持つて來らるゝ、誰でも調練の處に出席すると札は御自分で御調べになる、「ドウ」かすると御殿の當番がありませう、當番は外づす譯にゆかぬから、誰れかまた來ぬと云はるゝ、某は當番でござります。さうか當番でも成るべく出ねばならぬ、余が斯うして居るから、さう云ふ時は下され物がござります、夏ならば葛水とか、豚飯のやうなものであるとか、何歟調練場で下さる、「ドウ」かすると甘藷の茄たのがある、重久元碩と云ふ御茶道がある、彼の人が附いて調練の處に出て居つた事がある、ところが甘藷の茄でたやつを御自分でも召上る、元碩も食べる、元碩が皮を剝ぐ、さうすると元碩は皮を剝ぐやうであるが、皮は「ドウ」するのか、御自分には皮ともに召上る、其の皮は「ドウ」するのかと言はれて、これは後で戴きますと斯う申上げた、それで後で皮ばかり食べた可笑しい話でありました。(或故老談)

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