小笠原只八 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

小笠原只八、名は茂敬、又、茂卿、後に牧野群馬と變名した。世々高知藩士、文久元年、江戶に在る時、藩主容堂の拔擢によりて、側物頭となり、大監察に進む。京都に抵り、名士と交りを結んだ。慶應年間、倒幕の議起るや、板垣退助等と共に密に薩長の諸士と會議した。明治戊辰、朝廷の命を奉じて、松山藩を徇ひ、又三條實美の爲に、江戶の狀勢を視察して報吿した。奧羽征討には、大軍監として從ひ、明治元年八月二十五日、若松城下に於て戰歿した。四十歲。
 文久二年子一月、長州藩の久坂玄瑞、高杉晉作等、外國人を神奈川に要擊して、外患をひき起し、之れに依って戰端を開かんとし、十二日夜、其藩邸を脫した。長州の世子定廣、之れを聞きて驚き、卽時單騎馳せて、蒲田の梅屋敷迄赴き。山縣半藏等をして高杉、久坂等を連れ戾さしめ、懇々說諭して思ひ止まらしめた。
 土佐藩の容堂亦憂ひて、藩士林龜吉、小笠原只八、諏訪野助左衞門、山地忠七等に內旨を傳へ、馳せて之れに赴かしめた。それは士佐藩士の中に此擧に與みする者があるからである。只八等四人、蒲田梅屋敷に於て、長州世子に謁し、容堂の旨を傳へた。長州の重臣周布政之助、馬上醉に乘じて、容堂公は中々御上手ものだと揶揄した。其意は容堂の狡猾を諷するものである。只八等、斯言を耳にして、激怒鍔をたゝいて周布に迫る。高杉晉作進み出で。不埒漢は吾輩成敗するとて、刀を拔いて馬を擊つ。馬逸して、周布は漸くにして危地をのがれ得た。しかし只八は切齒して憤り、君辱しめらるれば臣則ち死す、必らず周布の首級を乞ひ受けたいと。翌日死を決して長州邸に談じ込んだ。長州の世子之れを諭し、後に周布を幽閉に處して、漸く事なきに至つた。
 士州藩は上士と下士との軋轢か甚だ劇しかつた。梅屋敷の際、下士勤王家間崎哲馬等は居合はせてゐながら、彼等は傍觀してゐるのみであつたから、上士の勤王家である只八は、乃ち下士の間崎等を詰つて、臣子の節を知らぬものと痛罵した。間崎等は割腹して之れを詑んといふ下士の頭目武市半平太憂ひて、此旨を容堂に吿げ、公の命によりて只八を諭し得た。只八の至情常に斯の如きものがあつた。 或る時、土佐の下士五十餘名相謀り、容堂を諫諍して、若し聽かれずば、藩を脫して水戶に奔らんと企てた。只八病んで蓐に臥してゐたが、此事を知つて大に憤り。衾を蹴つて起ち、容堂に謁して、下士輩、公を威嚇して臣子の禮を紊る、決して宥るすべきでない。乞ふ彼等に謁を許すと稱して、之れを白洲に延き、我等亦侍士五十餘人を配して、一擧血烟をあげて斫らんと說く、容堂笑つて諾したが、此事下士に漏れて、遂に拜謁の願書の却下を請うた。
 只八、藩論の因循を憤つて、官を辭して退き、偏に上國の事を憂ひてゐた。慶應三年五月、板垣退助歸國して、西鄕等と約して、勤王の盟を結んだ事を語る。只八勇躍、具足櫃を携へ來り、自ら探つて、此軍用金を見よ、此銃を見よ、皆是れ勤王に從はんためのみと吿げた。只八退助と親交あり、益々其提携を堅くした。
 明治戊辰、官軍江戶に入る。西鄕隆盛、勝安房と諮り、平和の裡に事を定めんとし、官軍の軍氣漸く怠るの狀態を示した。只八、江藤新平と共に、三條實美の命によつて監使となりて京都より江戶に來つた。時に只八、牧野群馬と改稱してゐた。群馬、新平と共に具に視察して、還つて實美に報吿した。之れ大村益次郞の江戶入りとなつた因である。
 群馬、時に尾張邸に屯する板垣退助を訪ひ、軍情を視た。(委細は板垣退助の項に在る)土州の軍律頗る嚴なるものがある。群馬戲に退助に曰く、兄の軍實に峻嚴、こゝに臥するは恰も石窟に座するが如き空々寂々の氣を感ずる、寧ろ去つて品川に宿らうと。退助戒めて、市上極めて不穩である、時に官軍の途上に斬らるゝ者があるから、戒心するがよい。殊に子は肥滿して步行に惱むものである故、夜陰は必らず駕輿に乘るを避けよと、くれ〴〵も忠吿した。
 數日の後、群馬來訪して。先日、兄の命を用ゐず、甚だ危險に臨んだ事があつた。それは過ぐる夜の歸路、足が疲れたから兄の戒めに背いて駕輿を雇うて、金杉邊まで行つた。果して覆面の大漢の頻りに吾輿を窺ふものがある。茲に於て曩きの兄の言を思ひ當り、密かに刀を廻はし、鞘をはらつて、大喝其面上を突いた。鮮血逬しる聲があつて、大漢地に倒れた。乃ち輿丁を叱つて走らせると、輿丁は愕いて其疾き事風の如きものがあつたと。語り終つて大に笑うた。退助曰く、子の大膽なる驚くべしである。だがしかし、何故速に輿から飛び下りなかつたのかと聞くと。否、啻、面を刺せる時の痛快は格別なものであつたと。退助更にいふ、若し敵五六を以て襲ひ來つたのなら、如何にしたと。群馬頭を搔いて、それには閉口する。
 大村益次郞東下して官軍を統ぶるや、群馬再び江戶に來り、町奉行の職に就く。東叡山の戰ひに臨み、兵士等群馬に問うて、東叡山を燒き立てゝもよろしきやと。群馬笑つて、霸者の殘物固より灰燼にせよと。
 群馬又同志の友人が皆砲煙の裡に鬪ふを見て、雄心勃々として、遂に冠を捨てゝ大總督府の軍監となりて、白河に來り、退助等と合した。
 蓬田に宿する時、退助は敵襲なき事を覺つて、今夜は衞兵の要なき事を說いた。しかし他藩は之れに贊成せぬから、止むを得ず、退助は夫卒に銃を持たして番兵とし、兵士を皆眠りにつかしめた。しかも退助は臥床して、萬感交々起つて容易に寢に入る事ができぬのに。群馬は其は退助の軍配は實に可なるものであると、掌を叩いて贊嘆してゐたが、橫に臥するや否や、直に鼾聲を發して熟睡した。善謀の退助、却つて群馬の膽大なるに驚嘆した。
 若松城下の戰は、彼我の奮鬪激甚なものがあつた。群馬、自ら大砲の綱をひき、高聲に放歌して、吾軍の士氣を勵まし、彈雨の間に突進した。飛彈、群馬の中軀にあたつて破裂し、夜に入つて絕命した。
 此日、群馬、退助と俱に瀧澤の山上に登り、眼下に若松城を視て。まさに是れ我が埋骨の地とするに足ると吿げた。斯言識をなして遂に其日こゝに斃れたから、退助、群馬の死屍を抱いて大に慟哭した。

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