甲賀源吾 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

甲賀源吾、天保十年正月三日、江戶に生る、諱を秀虎といふ、遠州掛川藩士秀孝の四子。十七歲、江戶に出で、蘭學を修む。海軍に志して、矢田堀景藏の塾に入り、次に荒井郁之助の塾に入りて學び、安政五年、矢田堀に從つて長崎に赴き、航海術を學修した。翌六年軍艦操練方手傳出役を命ぜられ、爾來幕府の海軍に從ひ、文久元年、江戶灣測量、同二年千秋丸にて小笠原島に渡航した。慶應二年、奇捷丸艦長に補せられ、明治元年、軍艦役を命ぜられ、尋で軍艦頭並に陞る。同年八月、榎本釜次郞に從ひ、品川海を脫して函館に奔る、時に回天艦長であつた。明治二年三月、官軍の甲鐵艦を拿捕せんとして、富古灣に鬪ひ敵彈に中りて斃る。三十一歲。
 明治二年三月の宮古灣海戰は、明治初期の海戰史上最も壯烈を以て聞えたものである。幕艦回天の艦長甲賀源吾あつてこそ、始めて舷々相摩すの大血戰は演ぜられたのである。或人、之れを以て吾邦に於ける歐式海戰の嚆矢と評した。
 始め、榎本等の品海を脫せんとする時に、曾つて幕府より米國に注文した軍艦甲鐵が橫濱に入港したから、甲鐵を奪つて吾有に歸せんとして、其隙を窺うてゐたゝめ、荏苒日を送つてゐたが、甲鐵艦は官軍の手に歸したから、恨みをのんで北進したのである。當時日本に在る軍艦は木造船のみで甲鐵のものは一もなかつた。この甲鐵艦は其名の如く、裝甲艦で、竪牢の點に於ては在來の艦船の比でなく、且裝置の大砲も格段に有力なものであつたから、榎本を始め幕軍の海將が垂涎して之れを吾掌中に收めんとした事情は察するに餘りある。
 幕艦開陽は、始め旗艦として雄を誇つてゐたが、江刺に於て坐礁して航海の用をなさなくなつて破壞して了つた。茲に於て回天が吾旗艦となつた。回天はもと普魯西の軍艦で、廢艦となつて、英商の手に入り、之れを修理して幕府の購ふ處となつたものである。甲板上長二百三十呎、最大幅三十四呎四吋、噸數千二百八十噸、馬力四百馬力、大砲は五十六斤が十二門ある、船材は木である。之れに對する甲鐵は、排水千三百五十八噸、馬力千二百馬力、三百斤砲一門七十斤砲二門、當時日本唯一の有力な裝甲軍艦であつた。
 幕艦は曩に甲鐵艦を奪ふ機會を逸したから、之れを攻擊するがために、特に尖頭に鋼鐵を付した砲彈を製造して、甲鐵艦の攻擊準備に怠らなかつた。
 源吾、幕艦隊の司令官荒井郁之助に進言して、北進の官軍艦隊の東北某地に集合するを窮うて、急遽襲擊して、甲鐵艦を奪ふの策を樹てた。軍議此策を可として、回天、蟠龍、高雄の三艦を以て之れに當たる事とし、荒井は全艦隊を督して、宮古を襲擊するの策が計畫せられた。
 其策は吾三艦の宮古に入港する時には、各々外國旗を揭げて敵を欺き。襲擊開始と共に旭日旗に改め。蟠龍と高雄とを以て甲鐵の左右兩舷に橫接せしめ、遽に敵艦に侵入して之れを拿捕するの方法を取る事にし、回天は他の敵艦數隻に當つて、彼等をして甲鐵を救援せしめぬやうに爲す事になつた。斯て甲鐵を奪ひ得たなら、其艦を操縱運轉する爲の人員をも豫め定め置いて、三月二十日の夜、意氣昂つて三艦函館を出發した。
 官船の軍艦旗なる菊紋旗をば翻へした三艦は、南部地方の海岸を巡航して山田港に入り、初めて官艦の宮古に集合する事を知つた。しかし山田に入る前夜に、風濤激しくして、三艦は分離し、漸く回天は米國旗を揭げ、高雄は露國旗を揭げて、山田に入港したのであるが、蟠龍は未だ來着せぬ。されど、蟠龍の到着を待つてゐては或は機を失するの虞れがある故、高雄をして甲鐵を襲はしめ、回天は他艦と鬪ふの議と改め、二十四日午後二時山田を拔錨した。
 不幸にして途中に於て高雄の機關に故障を生じて、回天と雁行する事ができなくなつた。若しこのまゝに時刻遷延しては、明々の白晝となつて、襲擊について非常の困難を感じるから、此上は回天一艦のみで事を爲すことになり、回天艦上俄に甲鐵艦攻擊の準備を急いだ。乃ち接舷攻擊を行ふ時の準備として、豫め吾將士には合印を附して同志擊の危險を避けしめ。愈彼我の舷側相接する時とならば、吾攻擊隊は勇躍敵艦上に侵入して、一氣に敵を壓倒し了はるの手段を評決した。是に於て回天は孤艦米國旗をかゝげて、官艦八隻の集合せる宮古に進み入つた。時は明治二年三月二十五日の黎明である。
 既にして回天は甲鐵に近づき、急に舵を轉じて機關を止め、少し後退すると、宛も回天の艦首は甲鐵艦の右舷中央に直角に乘りかけた。俄に星條旗を卸して旭日旗を揭げ、五十六斤砲を放射した。つゞいて小銃亂射。甲鐵艦の狼狽は名狀すべからざるものがある。
 乃ち回天の突擊隊は、一躍甲鐵に乘り移らんとしたが、彼れの舷側、我れに比して一丈も低いために容易に飛込めぬ。之れに加ふるに敵兵は舷側に匿れて銃槍を以つて待つてゐるから、吾突擊隊も逡巡した。一番分隊長大堀波次郞刀を揮ひて先づ躍り込んだ。之れに勵まされて突擊隊は續々飛び移つたが、豫期しなかつた新銳の速射砲が敵艦にあつて、之れが爲に甲鐵艦に移つた突擊隊は悉く撫ぎ倒された。
 回天艦長源吾、艦橋上に之れを視て、勇奮指揮してゐたが、官軍の諸艦から霰彈小銃彈を猛射せられて、艦橋上は彈丸雨飛の光景となつた。源吾殊に覘はれて猛射を浴び、遂に左股にうたれ、右腕を貫かれたが、よく耐へて衆を激勵してゐた。司令官より後退の命發せられ、源吾之れを命下せんとする時。甲鐵の速射砲彈飛來して、源吾の顳顬を貫いたから、こゝに壯烈な戰死を遂げた。
 源吾斃れて、司令官が艦長に代り、機關室に後退を命じ、甲鐵を離れて港口に脫した。高雄を見て戰鬪終結の信號を以て報じ、俱に北航して、途に蟠龍に會し、三艦函館に向つた。
 宮古の一戰、回天其志を遂ぐる事能はなかつたけれど、壯烈の戰ひをなして幕艦爲に氣を吐いた、之れや甲賀源吾の名の後世に傳はる所以である。

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