予言の最後はなぜ 終焉や破局なのか。 | LIZABSTRACT

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以前こんな事を書いた。


後白河法皇が「予言詩」で警告する戦慄のカタストロフィ
http://ameblo.jp/lizabstract/entry-11417746175.html





最近ふと・・・
この時にコメで訊ねられた事に
自分なりの答えが出たような気がした。



「世界中の予言というのは、いつも破局で終わりますね。」



以前誰だったか忘れたが
小説家か脚本家のような
お話をつくる職業の人が
「恋愛小説というのは、もう物語の終わりは
決まっている。」と言った。
生き別れにしろ死に別れにしろ
最後はもう別れるしか無いので他のエンディングは無いのだと・・・


たしかにそうだ。




「野馬台詩と聖徳太子の「未来記」は
多分ソースが同じだと思います。」
今でもそう思っているのだけれど・・・



予言がいつも世界の終焉になっているのは、
単純に恋愛小説と同じ理由かもしれないと
ふと最近になって思った。





恋愛のエンディングがいつも別れであるように、
人の人生でも命には限りがありどんな人でも
必ず死ぬ事になっている。

必ず死ぬ事を前提に私たちは生きているのだ。


では、それをそのまま
文明や種族や人類や地球や国や星に
あてはめてみても、
やはり「死」と極めて似た状況として
この世の終焉や滅亡や破局という事が
起きてくるのだと思うようになった。


インドの聖典・マハーバーラタの中で
描かれる「インドラの雷」が古代核戦争の
核兵器であったのではないかという話がある。

すでにこの世は一度、またあるいは何度か
滅亡してまた始まったという話が
色々な語られ方で存在する。
「火の鳥」でもそういう話があったし
ロシアの声がそういう記事を書いていたこともあった。

オーパーツや古代の原子炉だったと言われる
旧フランス領(アフリカ)ガボン共和国の
オクロのウラン鉱床なども
25億年前という陸上生物が存在しないはずの年代で
古すぎる事が説明できない理由のひとつに
あげられているが、すでに人類がなんどか滅んでいれば
説明がつくような部分もありそうだ。








ネアンデルタール人が私たちと全くちがう
ルーツがつながっていない人類なのも
いくつかの人類が同時多発的に発生したり
滅んだりしているかもしれないし、
ギアナ高地のような限られた空間で
急発展や滅亡をした人類があってもおかしくない。

そしてこの地球の長い歴史で
私達(今生存している人類)しかいなかったとも
思えないし、私達が考える以前の地球にだって
生物が居なかったとも言えないのだから。









とにかく、人類は滅亡するし
地球の寿命もいつかはやってくることだけは
たしかなのだろう。


宇宙飛行士は、地球が滅ぶ時は
地球を出て新しい居場所を探すことが
私達人類が生き残る手段だと言うのだけれど。






そうなんだろうか?
それは正しい事なのだろうか?










バイトを辞めた事のある人なら
わかると思うけれど、
「君がちゃんと来て働いてくれないと
本当にうちの店は困る。」と言っていた店長は
バイトを辞めた途端に新しいバイトを探して、
店はちゃんと営業するものだ。




人類だって、新しい惑星がこんな汚れきった
地球人を受け入れてくれるだろうか?


人類が滅びたら、
それはそれで環境はまた新たな生命をはぐくみ
また最初から始めるものなんじゃないかと思う。







人類や地球や生物が滅びたり
生まれたりする事は
良いとか悪いとあまり関係無いかもしれない。


良い人だから長生きするとも思わないし
善良でないから短命だとも思えない。










ただ飛行機に乗らない人は
飛行機で落ちる事はないだろうし、
船に乗っていない人は船舶の沈没事故に
会う事はないように。




どう滅亡するのが我々にとってより良い終焉なのかは
多少は考えて生きるのが
良いように思える。