猪谷宗五郎「元帥大山巌」07 | 大山格のブログ

大山格のブログ

おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 九年十月、熊本に敬神黨の亂突發し、福岡、山口に波及したので、元帥は當時陸軍少輔で熊本鎭臺司令官を兼ね、急遽西下して、鎭撫に從事されたが、間もなく平定した、是れ第四回目である、越えて十年二月、丁丑役起るや、別働第一旅團司令官として、元帥は肥薩日隅の間に轉戰し、遂に城山陷落を見るに至つた。是れが第五回目である。
 明治二十七八年日淸戰役の將に起らんとするや、時に元帥は陸軍大臣であつたが、一日山縣有朋公を訪づれて云はるゝやう、御互に年来あらゆる萬難を排して、心身を陸軍の興隆に捧げたる所以のものは、畢竟今日あるが故であつた。今乃ち手を携へて攻城野戰の事に從ひ、以て皇恩に報ゐ奉らんと、有朋公も今更ながら元帥の燃ゆるが如き誠忠と、斷乎たる決心とに深く感激せられたと云ふ。(大迫尙敏將軍直話)果せる哉、有朋公は第一軍司令官に、元帥は第二軍司令官に各補任せられた。そこで元帥は節一師團及第六師團混成旅團の兵を率ゐて金州半島に向はれた。畫策節制の宜しきを得で。連戰連勝、遂に淸國の關門たる旅順の堅壘を拔き、國光を宣揚し、平和を克復せしめられた。皇上其の軍功顯著なるを嘉賞して、特に侯爵を陛授せられた。是れ第六回目である。
 茲に附記して置きたいのは、此の日淸役と大山元帥に因める重大逸事である。日淸戰爭中、露國は我に武力干涉を試みやうとしたが、我が水雷艇の威力を怖れて躊躇したと云ふ事實と、嘗て軍備擴張計畫の廟議に當り、元帥が甲鐵艦や巡洋艦を急造するのは、時日と經費の關係もあるから、水雷艇を澤山造つて之れを償ふのも、亦た國防上の一策であらうと主唱されたことがあつたが、今更ながら卓見であつたとて、明治三十年時の樞密院議長黑田淸隆伯が元帥に送られた書翰がある。貴重の文獻であるから、次に其の全文を揭ぐることゝする、
拜啓、甚寒之候に御座候處、益〻御淸穆被爲涉奉敬賀候、爾來無申譯御疎闊打過候に付、其內拜顏得度乍存彼是勝手に取紛れ、御無音罷在候段、不惡御諒察被成下度奉願候、偖露國外交政略に關し、曾て西顧問官殿の談話を請ひ、筆記印刷被爲致候に付、御內覽に奉供候。就中此談話中に相見候通、先きに日淸交戰中、最初干涉を試みんとしたるも、我が水雷艇の出沒攻擊を怖れたるは事實に有之候。右に就いては曾て軍備擴張計畫の際、拜聽仕候閣下の御意見卽ち急に甲鐵艦又は巡洋艦を造り、優勢なる艦隊を組織することは、時日と經費の許さゞる所あるを以て、萬一不得已場合に於ては、速に水雷艇數十隻を造り、日本沿海竝に諸島の間に深く散し、奇に出て變に應じて、出沒隱顯して敵艦を打破するの策を執るに不如との御說は、實に敬服今尙ほ能く記憶罷在候、閣下の御卓見は恰も符節を合するが如き感有之候、旁以て御用暇御一讀被戊下候はゞ幸甚之至に奉存候、將又聊軍務外交に關したる廉有之哉に相心得候に付、機密に致置度希望罷在候間、乍憚右樣御了承被成下度奉願候 草々敬具
  明治三十年七月二十六日
                淸 隆 拜 印
  大山侯閣下
(この項つづく)

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ