永山弥一郎 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

永山彌一郞、天保九年、鹿兒島に生る。名は盛弘、初め萬齋と稱して、島津侯の茶坊主であつた。明治戊辰、奧羽に轉戰して功あり。明治四年、陸軍少佐、尋で開拓使三等出仕に任ぜられ、北海道に赴き、陸軍中佐に陞り、屯田兵の長となる。明治八年、職を辭して鹿兒島に歸り、同十年、私學校黨蹶起するや、彌一郞初めは應ぜなかつたが、桐野利秋の懇切に說くに及んで、死を期して其擧に左袒し、三番大隊長となり、熊本城の攻圍に從うた官軍の一隊八代から上陸して進むを擊つて、四月十三日、御船に鬪うて敗れ、民家に入り火を放つて自刄した。四十歲。
 明治十年四月、御船の戰ひ敗れ、彌一郞既に死を決して、其宿舍する民家の主人を呼び、此家屋を我れに賣れよといふ。主人は買つて頂くに及ばぬ、隨意に御使用あれとて承知せぬを。强いて百金を與へて受取らしめた。之れは其民家を燒いて火中に自殺するから、主人に迷惑をかけぬためである。
 彌一郞自刄の後、其家の主人は、彌一郞の義に强きを敬慕して、墓を建てゝ懇ろに其死屍を葬つた。後に彌一郞の弟、來つて改葬して他に移さんといふ。其主人之れを拒んで、將軍は吾村民の守護神であるから、此儘此處に置いてほしいと、切りに請うて止まぬ。彌一郞の弟、其志を喜んだが、諄々諭して、漸く改葬する事になつた。彌一郞の人に敬慕せらるゝ此一事を以ても能く證明し得るものである。
 明治戊辰の奧羽征討に際し、彌一郞白河口に向ひ、白河城を陷した。城陷ちて彌一郞等敵壘中を視ると、酒を滿たした酒樽が遺してある。彌一郞大に喜んで、矢庭に樽に口をつけて長飮した。時に尙戰鬪やまず、砲彈の落下して爆發するものがあるが、彌一郞は容易に酒樽を離れやうとせぬ。戰友を呼んで、暫らく戰をやめて酒につけ、我れ此酒樽から離れ難いものがあると。遂に酒樽を飮み干し終つた後、再び戰線に走り出でゝ戰つた。
 彌一郞、戊辰の役には、チヨツキとズボンの上に和服を著けて出で、戰ひ酣となるや、和服を脫し短刀を携へて敵に當る。伏見の役に於て、桐野利秋、最も勇戰して、我れこそ先登第一に敵陣に突入した者であると思うてゐると。豈に圖らんや彌一郞は早くも敵中から、分捕した刀劍を奪うて、之れを肩にして歸り來たから、桐野は、彌一郞が如何に疾く敵陣に突進してゐたかを、測り知り難ねて、其敏捷と其勇氣とに驚嘆した。
 棚倉の戰に、彌一郞、左脇を射られ、其銃彈を拔くために、橫濱の病院に入れられた。愈手術するに臨み、麻醉劑をかけやうとすると、彌一郞堅く拒んで、座右の草花を插みつゝ、平然として乎術を受けた。
 又病院に在る時、藥餌の外の飮食を禁ぜられてゐたが、一日、饅頭を購うて喫してゐる處を醫師に發見せられて、大に叱責せられた。彌一郭曰く、吾病が癒えたから、饅頭を食ふのであると。醫師のまだ治癒してゐないことを說明すると、大に怒つて、已に斯の如く癒えてゐるとて、柱を撲つこと兩三回。痍破れて膿血が出るも、彌一郞は何處までも全癒してゐると主張して、遂に退院して、隊に歸り、自ら治療し終つた。
 明治六年、征韓論の事を以て、西鄕隆盛鹿兒島に歸り、尋で桐野利秋、篠原國幹等も歸つたが、獨り彌一郞は之れに同ぜぬ。明治八年に至り、政府、樺太と千島群島とを交換する條約を爲すや、彌一郞、平素の持論と合はぬを慨し、こゝに斷乎辭職して歸つた。
 明治十年、私學校黨の勃發の際にも、彌一郞獨り衆と合せず。西鄕先生が政府の曲を匡さんとするならば、ニ三の子弟をのみ從へて東上し、飽迄其意見を陳べらるのが適策である、と語つて、私學校黨の勸めに應ぜなかつた。曰く、諸君は官軍を以て、無規律の幕兵と比較して、甚だ與みし易いとするが、今や陸海軍は漸く完整を吿げんとしてゐる。在朝の人士も亦吾友人で、倂も其智識の進步も著るしいものがある。之れを侮つて、兵を擧げるはよろしくない。寧ろ他日の國雖を待つて其時に命を棄てゝ效を建つべしであると。彌一郞は以上の如き說を持して衆議を排してゐた。然るに桐野利秋、自ら彌一郞を訪うて、甚だ切實に說いたから、彌一郞は遂に心を飜し。我れが先きに論ずる處は勝敗の數をいふのであるが、諸友が若し戰死した場合、我れ一人の生き存へてゐるつもりは少しもないとて、甘んじて死を決して其黨へと加つた。
 兵を進めて熊本城を圍む時、官軍の援兵が八代に上陸したといふ報があつたから、薩軍は攻圍軍の一部を割いて、彌一郞を將として、急に八代方面に向はしめた。薩軍能く戰つたけれど衆寡固より敵せず、兵勢日に日に蹙る。御船方面の戰鬪に於て、彌一郞亦敵彈の爲に負傷したけれど、尙勇を鼓して、酒樽に腰をおろし、長刀を拔いて、叱咤指揮してゐた。
 官軍大擧して襲擊し來り、吾軍は潰亂して、彌一郞の身邊には既に隻兵の影もなくなつた。彌一郞こゝに於て自刄の期至れりとして、我れ此方面を擔當して鬪ひ、此大敗を取る、一死以て罪を同志に謝せんと。乃ち民家に入り、火を放つて其處に自刄したのである。


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