結局、一睡もできないまま朝になり。

寝たきりの患者さんたちのおむつ交換を終え、換気をしようと窓を開けようとした。

そうしたら。


「だめ!放射能が入るから!!」


すごい剣幕で怒られた。普段、大声なんか絶対に出さない職員さんに。


放射能…?どういう、意味??

意味がわからなかった。だって、原発は、安全なんでしょ??


まさか…


少しずつ明るくなってきて、なぜか次々と患者さんの家族がやってきた。いっしょに避難するという。

避難?なんで??ここにいたほうが、安全じゃないか。

そう思ったけど、みんな急いでいるという。とりあえず、言われた通りに薬を渡し、送り出す。


師長が、ゆっくりと、言った。

「落ち着いて聞いてね。原発が危ないから、半径10km以内に避難指示が出ました。今、県がバスを向かわせているそうです。だから、みんな、準備して。」


意味がわからなかった。

なぜ、私は今ここにいるんだろう?家族はどうなるの?じいちゃんばあちゃんは?


私は、今後、どうなるの??


なんとなく、「あ、死ぬんだ。」って思った「人間、死ぬってなんてあっけないんだろう」と思った。

そして、「あれ?このセリフ、どっかで… あぁそうだ。どうでしょうのアメリカ横断で、大泉さんが倒れたときだ。そっかぁ。あれかぁ」なんて、いやに冷静に分析とかしてた。


朝日がいやにまぶしかった。これから先、どうなるかわからないからとりあえず何か食べとけと言われ、おにぎりを渡された。でも、のどを通らなくて、食べられなかった。


家族が周囲にいた患者さんは、どんどんお迎えがきていっしょに避難していった。

町に、どんどん人がいなくなる。

職場は町の中心にあったんですが、人がいなくなっているのがよくわかった。


外は完全に明るいのに、周りの建物みんな見えるのに。人がいない。

そして、私の家から向こう側は、瓦礫がたくさん、見えた。


ゴーストタウンって、こういう現場をいうんだ。そう思った。


それから4時間くらい。患者さんのカルテに内服薬を取り付け、入院患者さんにレトルト食品を配り、寝たきりの患者さんに点滴を打って回った。


なんとなく、絶望感が襲っていた。


なんで、私は、逃げられないのか。

目の前の警察も、町の職員も、みんな逃げたのに。

なんで、私は逃げちゃダメなの?公務員でもなんでもないのに。ここで、死ぬの??


すべてが、信じられなくなっていた。そんな中。


一人の職員が、師長のところにやってきた。

「私の親戚に、自衛隊の人がいるんです。その人が、原発の前の放射線量がいつもの7倍だって言ってました。早く逃げろって言われました。なんでまだいるんだと。私は、どうすればいいですか?」


みんな、静まった。師長は、ふっと息を吐いて、ゆっくりと、こういった。

「20代の職員は、逃げなさない。あなたたちには、未来がある。子供だって生みたいよね。私たちはもうおばさんだから。行きなさい。役所は、国道を通って西に逃げろって言ってた。とにかく、西に逃げなさい。」


その場にいた20代の職員は私を含め4人。


みんな、泣いてた。コートを着たとき、師長が、そっと。

「元気でね」といった。


なきながら、階段を下りた。


途中、町役場の前を通ったんですが、人が全くいなくて。病院にまだ、人がいるのに。なぜ、誰もいないんだろうと絶望しました。

すれ違う自衛隊の隊員は、みんな白装束。そんな装備をしなくちゃいけないくらいの土地に、私たちは今までいたのか。

もう、何も信じられなくなりました。



それから、約15時間かけて郡山へ行きました。

奇跡的に私はそのあとすぐに一時的に東京に帰ることができ、ネットの情報を郡山にいる先輩におくりながら品物を集めました。


とにかく、情報がほしかった私は、Twitterで情報を集めていました。そして、CUEメンバーでTwitterをやっていた鈴井さん、リーダー、音尾さんに情報集めるための拡散をお願いしました。

その拡散に、音尾さんが協力してくれたんです。拡散願います、と非公式リツをしてくださいました。


音尾さんのおかげで、放射能の専門家とつながることができ、それから半年にわたりさまざまな情報をいただくことができました。


音尾さん、本当にありがとうござました。


いただいた情報と、品物をもって3日後再び郡山に入り、そこで患者さんの看護をしながら1週間避難所で暮らしました。


双葉から自力で原町へ避難した祖父母は、その後屋内退避のため原町から動けなくなりました。少しずつ食料がなくなり、避難先の親戚が心労のために壊れてしまい、祖母は泣きながら母親に助けてと電話をしていたそうです。

途方に暮れていたとき、私が郡山にきたと知って「まぁといっしょにいたい」とわずかなガソリンで郡山まで来て、私と合流することができました。


再開できたとき、廊下で、3人で泣きながら抱き合いました。



私自身、このことを話せるようになるまで2年かかりました。あぁすればよかった、こうすればよかったという反省点も多いです。


でも、少しずつ震災が忘れられている今。


この体験を語ることが、双葉出身の私の役目なのかなと思うようにもなりました。



今もまだ、震災は続いています。双葉に帰れる、その日まで。

少しずつ、でも、確実に。


これからも、ブログに書いていこうかなと思います。


読んでくださり、ありがとうございました。