夕方、散歩に出て歩きながら考えた。昔から歩きながら考える事が好きで、ぼんやりしていて、行き先を越えていってしまうようなこともあったね。

それで、よく自分はへこむんだけど、つまりは挫けやすい人間だ。人に自慢したり誇れるような暮らしをしてない現実もあるしね、自分の考えが正しいとかって言い切れない弱さもあるから、批判を受けたりすると考え込んでしまうんだよね。

他人にがっかりする事ってのもある。
何故がっかりするかと云えば、期待があるからだね。最初からダメだと思えば、あーやっぱりだもの。

個人に対してはなるべく余計な期待をもたぬようにと思うのは、その期待っていうのは自分の描いたイメージだからだね。それから外れると自分の見る目が無かったとか、思ったような人では無かったとなるよね。

ブログやネットでも同じような事があって、昔は愛読していたブログを読まなくなったり、読者も変わっていくのよね。

情報や違う意見を求めて読むことも、議論になることも反論を書く事もあるけど。それも自分の概念を柔らかにしてくれるし、狭い自分の認識も見返す事が出来るからね。

人の考えは変らないとは思わない。10年前と同じ考えを持ってる人の方が少ないでしょ。気づきもあれば反省もあるもんだしね。
それで、今日、ノーベル賞の記事への批判的な意見を見かけてちょっと考えていた。

政治や時事については、以前も書いたけど反論や異なる意見はあるのが当たり前なんだけど。やっぱり共感性の近い人が読者になったり集ることが多いと思う。ペットや趣味の平和な話だと反論はまずないだろうけれどね。

そういう話題に言及するには、それなりの覚悟がいるんだろうか。直球な話は避けるとかの知恵も必要なのかもしれないけどね。自分は率直な意見は交わされた方がいいと思っているので。

それでノーベル賞の話では、当然違う見方があるだろうとは思っていたしネットでも見かけた。イスラムの話や中東情勢っていうのは微妙な話だからね。どうもこのへんは鬼門なんだろうね。

それでその記事では、タリバンの手紙を「脅迫状」と捉えていてそれは一顧だにする価値はないがそれに一理あるなどと言う連中がいる。と云うんだけど。その中の反グローバリズムの考え方に一理もないのかってとこが、タリバンの擁護と捉えられたんだろうね。

少女の頭に銃弾を打ち込む連中のどこに一理があるのかってのには納得するけど、そんなこと誰が考えても理不尽だよね。でも一理はそこにあるんじゃないでしょ。西洋的グローバリズムの一色化に反するとこには一理あると自分は思ったのだが。

アメリカがイギリスがって、子供じみた卑怯な逃げを打つ、とも書かれていたけどそれは子供じみた卑怯な逃げなんだろうか。

それは「多様な言論」とは呼ばない。「悪しき相対化」であるとの批判だけど。価値観や捉え方の違いはあるだろうけれど、多様な言論とはなんだろう。悪しき相対化って何だろう。あっちも悪いことやってるから、こっちが悪い事やってもいいって単純な話じゃないだろうけれどね。

それも女性差別の一環なんだろう、って云われると困ってしまうなぁ。まぁ以前、貴女は言葉を乗っ取られてるネトウヨと同じって言ってきた方だからそう見られてるんだろうけど。一時が万事って言葉もあるように、一時で判断できないことがあると思う。非難してるのではなく自戒をこめてなんだけど。

引用やコピペだって、その人の選択が働いている事はあるので。それを取上げることへの批判もあるとは思うけれど。事象を多角的に眺めようって思っているのを咎められると、ちょっと困惑する。

相手を理解しようと思わない人に理解させる事は難しいってことだね。偏見だと言ってしまえば、偏見の無い人なんていないんじゃないかなぁ。

明日から料理と日常と猫の記事書きます。ってなるかな。ならないかな・・