とても、懐かしい、それでいて、読むと,やっぱり泣けてくるお話しです。


 支援とか対応とか、取組みとかヘンテコな熟語使いますが、私は、「暮らすということ」

そのものやないかなと、思っています。


 子どもと真摯に付き合っていくこと、少しでも楽に付き合ってもらうこと。

 その積み重ねやと。


 特別なものは何一つないんじゃないかな…と。


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【葬儀の経験 00,09,23~25】


 今日は、私的でとっても暗くて悲しいそして長いお話です。
 ただの記録として書いています。
 ですから、はじめから読み飛ばしていただくとうれしいです。


 

 23日の午後ダダの曾お祖母ちゃん91才が亡くなりました。


篠山の福住で一人暮らしをしておりましたが、先月入院し、このところ
調子が悪くなってきていました。

 

 私は、何度か顔を見に行っておりましたが、もうそれほど時間がない
ようでしたので、運動会が終わってから、ダダやMUUも一度連れて
いこうと思っていた矢先でした。

 

 23日も午前中、私だけ面会に行き、少し会話をして、帰ってきたと
ころへ、訃報の電話を受けました。


 

 2人ともとてもかわいがってもらったので、ダダとMUUにせめて
お別れをと病院へ連れていきました。MUUは、大変な悲しみよう
で、大泣きし、身近な人の死というものが、どれほど辛いことかを感じ
ていました。


 

 ただ、ダダには、やはり難しく、本当は病院へも行きたくない…と
怒っていましたが、「お祖母ちゃんとのお別れだ」となんとか伝える
と、タオルを被りながらついてきてくれました。


 

 病院では、「風邪をひいたら、ねてていい?」とか、そんなおしゃべ
りをしていましたが、部屋にはいると「福住のお祖母ちゃん、サイダー
が欲しいです。」と生前いつもサイダーをくれたことを思い出したよう
でした。


 「お祖母ちゃんは、寝ているのではないよ、死んじゃったんだよ。」
こんな事を言う必要があるのかどうか、それもわからないまま、やはり
私の気持ちとして、どうしても伝えたく思い、手を握らせてお話ししま
した。


 

 ダダは、少しの間じっとしていましたが、遺体は、ダダには怖い
ものに感じたようで、やはりたえられず部屋を出ていきました。

 


 すぐに病院をあとにしました。それからは、お祖母ちゃんのことは、
なにも言いませんので、どんな風に感じたのかはわかりません。
けれども、なにか、なんでもいいから、伝わって欲しいと思いました。

 


 まだまだ、ダダには難しい問題を、こんなに早く経験することになる
とは…すぐには意味が分からないダダの姿は、こんな時辛いです。

 


 翌24日は、運動会でした。ダダもMUUも、いつもの元気を出し
て欲しいと思っていました。



 昨年から比べると、出来映えは、予想以上に素晴らしく、本当に成長
したなあと感激しました。



 運動会を無事終え、夜にはお通夜です。夕方お風呂に入れると、いつ
もはパジャマを着せるのですが、その日は、制服を出しておきました。
少し変だなあという顔をしたものの、朝から、お通夜のことは伝え
ておきましたし、文字で制服のことを付け加えたので、納得し着てくれま
した。



 私が先にまかないの手伝いに行くので、ダダに、“福住のお祖母ちゃ
んのお通夜に行きます”シートを作っておきました。それを見せて説明
して、ダダ父さんに渡し、5時半すぎには出発するように、ダダを促して下
さいと伝えておきました。



 お通夜の席では、他の従兄弟たちも勢揃いしていたので、それがダダ
を安心させたようです。大好きな従兄弟のお兄ちゃんを相手に、イタズ
ラをしていましたが、周りの神妙な雰囲気に飲まれるようにおとなし
くなりました。



 ただ、曾お祖母ちゃんの遺体が寝かしてある部屋には、一度も入ること
ができませんでした。「イヤだ!」と口にも出しましたし、体をカチカチ
にして抵抗を見せましたので、無理強いはしませんでした。



 私が、片づけの手伝いで残ることも、前もって伝えておいたおかげで
「おとうさんと、お祖母ちゃん(義母)とダダ、3人で帰ります」
と自分から言ってくれました。



 25日は、お葬式でした。どんな風になるのかわかりませんでしたが、
朝に大まかな予定を知らせておきました。


 Yシャツと制服を出すと、ダダが「ネクタイ?」と聞いてきました。
お通夜の席で、従兄弟の兄達が皆ネクタイをしていたので自分もするも
のだと思ったらしいです。ダダにはネクタイというものをつけさせたこ
とはないので、自分から言うからには、これから用意してあげようと思
いました。


 でも、この言葉で、ダダが今日の葬儀に出席する気持ちはあること
が、わかりました。



 ネクタイのかわりに、黒いサスペンダーで我慢をさせて、曾お祖母
ちゃんの家に向かいました。


 到着すると、きれいに飾られた祭壇に、驚いたようで、土間から眺めて
いましたが、しばらくすると、ダダは隅っこの机に向かって絵を描き始め
ました。


 それから、帰宅するまでに、今気に入っているボンバーマンの緻密な
絵を3枚仕上げることになります。ただひたすら、絵を描いていまし
た。



 このところ、家でも学校でも絵を描いていなかったので、私はとても驚
きましたが、おそらく、よくわからない状況の中で、なんとか、自分の好
きな絵を描くという行為を続けることで、安定しようとしているのだと思
いました。



 けれども、ここに絵を描きに来たわけではありません。やはり葬儀に
参加するということが、ダダにも必要だと考えましたので、ダダにもで
きそうな葬儀の内容を紙に書くことにしました。それは、二つのことで
す。



1つは、ご焼香をすること。

もう1つは、棺にお花を入れること


 どちらも、絵と文字で、前もって説明しました。


 ご焼香は、私が横で示してあげると、真似をしてくれました。最後
に、いつもは大きな声でするアンも、手を合わせただけで終えました。


 棺にお花を入れるのは、前日に、絶対に部屋に入らなかったことを考
えても、嫌がるかなと思いました。けれども、すんなりと、自分から祭
壇のところへ行き、お顔のところへ静かにお花をおくことができまし
た。逃げて帰ってくるということもなく、お顔を見てお別れをしてくれま
した。



 あれほど嫌がった遺体に近づけたことは、やはり視覚的に文字や絵で
示す、具体的にやるべきことがわかるというのと、ただ単に拝みなさい
というのとは、まったく違うのだということがわかりました。


 時折でる大きな独り言も、「BE QUIET」と記し、口がチャック
になった絵を見せると、止めてくれ助かりました。



 私は直孫なので、役付といってお供えの飾りをもって火葬場に行かなけ
ればなりませんでした。ダダは、どうしようかと思いましたが、バスに乗
るという声を聞いて、靴を履いてでてきました。それで、不安でしたが、
連れていくことにしました。



 火葬場ではそれまで落ちついていたダダも、とても混乱しました。
曾お祖母ちゃんが入った棺が、穴のようなところに押し込められてしまう
のですから、それは当たり前だと思いました。



 「目をつぶってない、寝てない。見るー!見るー!」と叫ぶダダの声
は、他の親族には迷惑なことだったと思います。それに、やはり、悲し
みということがわからない、たとえわかっていてもその表現ができないダ
ダが、混乱故に笑った声を出すことは、いくらダダのことをわかってくれ
ている親族といえども、聞いていて辛かったと思います。



 そんなことを言っても、効かないとわかりながら「ワラッタカオはし
ません」「おしゃべりしません」と声をかけました。書いて示すことや段
取りを伝えることをしてあげるべきだったのでしょうが、そんなことをす
るには、私はとても深い悲しみの中にいすぎました。


 仕方なしにおんぶをして、外を歩いていると「何分?何分?」とダダが
言いましたが、それすらも、沈黙をすることで、目をつぶって、聞かない
フリをすることでやり過ごしました。



 火葬場を離れていくバスの窓から、煙突の煙が見えました。「ああ、お
祖母ちゃんの煙が見える」誰に言うともなく口からこぼれました。それを
聞いた窓際に座っていたダダも、周りの親族も、その煙が見えなくなるま
で、無言で眺めていました。


 
 葬儀の家に戻ると、もう気力は失せ、お寺へのお参りへは、連れていく
こともできませんでした。ダダは、また一から絵を描き始めました。従
兄弟のお姉ちゃんが「ダダくん、今日はものすごく頑張っているね。」
と誉めてくれました。中学生の彼女でも、すでに疲労困憊で、家に帰り
たいといっていましたから、ダダの疲れは相当のものだったと思いま
す。



 その様子を見て、私の里の父が、皆がお寺へ行っている間に、ダダを
連れて帰ったらどうかといってくれました。


 骨上げ、遺骨迎え、精進おとしと、葬儀はまだまだ続くわけですが、
その言葉は本当にありがたく、そうさせてもらうことにしました。


「お家へ帰ります」と伝えると、ダダは無言でカバンの中身を整えてく
れました。



 家へ帰る車の中で、ダダは、珍しく雲の形を気にしていました。茜色に
染まった空に広がる雲を見て「あれはなんですか?」とたずねてきたの
で、「うろこ雲かな?」と答えると「ちがう!」と言い、また「あれはな
んですか?」と聞いてきました。


 後で考えてみると、もしかしたら、曾お祖母ちゃんの煙の行方と、だぶ
らせて考えていたのかもしれません。「福住のお祖母ちゃんの雲」と、そ
んな詩的なことが伝わるとはとても思わないけれど、そういってあげれば
よかったなと思いました。



 その夜は、いつもの日常と同じように、簡単な夕食を食べ、宿題をし
て、おきまりのバラエティーを見て、休みました。



 次の日は、もう学校です。


 運動会が終わったので、「今日から制服です」と準備をしていると、そ
れを見て急に思い出したのでしょう。


「福住のお祖母ちゃん、寝てたねー。死んじゃったねー」と言いまし
た。けれども顔はニコニコと嬉しそうです。


 それで、「うん、死んじゃったから、昨日お葬式でした。お母さんはと
ても悲しい気持ちでした。ダダはどうでしたか?」と言うと、しばらくし
て「悲しかったです」もちろん笑顔のままでした。


 でも、もうそれで十分なような気がしました。



 ネガティヴな経験は、できるだけ避けてあげたいというのが、私の意
見です。ですが、こういう事態は必ず来る。どう転んでも大変な経験に
なるのがわかっていましたから、なんとかしんどい想いだけで終わらせ
たくありませんでした。


こんな時でも、いえ、こういう時だからこそ、わかって参加するというこ

とをして欲しかったのです。


 その気持ちは、不思議と私自身の体面を気にするということをはるかに
上回っていました。



 今になれば、ダダに対して、こうしてあげればよかった、あんなことし
なければよかったと思うところが、数々あります。


 そして、祖母に対しても、私自身のお別れの形があれでよかったのか、
それについてはまだ整理ができていません。


 ただ、そういう私の性格も、ダダの事情も十分知っていた祖母でしたの
で、きっとわかってくれていると信じたいです。



 最後に、どうしてもはずせない仕事がありお葬式に参加できなかった
ダダ父さんの代わりに、ダダのそばに付いていなければならなかった私の代
わりに、全てのお別れをこなしてくれたMUU。



 小4という年齢では、大変だったと思いますが、よく頑張ってくれまし
た。


 とても感謝しています。