本当の自由とは? | Petit Petit Happy Search(ぷちプチしあわせさがし)

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仕事を通じて、自由とは何ぞや?と思うことがありました。
自由の意義について、統一原理は以下のようになっています。

自由に対する原理的な意義を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状(例:心と体)との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というのも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことはできないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。

第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。

第三に、実績のない自由はない。人間が自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。したがって、自由は常に実績を追求するがゆえに、実績のない自由はあり得ないのである。
<原理講論125~126ページ 前編 第二章「堕落論」第五節『自由と堕落』(一)自由の原理的意義>


原理とは、会社や学校などにおけるルールと同じようなものかと思っていました。しかし、真理は思っている以上に奥深い!!
原理とは、神様を中心とした“決まり事”で、神様を中心とするがゆえに、永遠・不変・唯一・絶対でブレがないということです。一言で表現するのは難しい…切り口によって表現の仕方が違ってくると思いますが、今回はこんな感じだと思います。
要するに、今回改めて感じたことは、自分の好きなようにやるのが自由ではないということ。
文鮮明先生のみ言「誰も見ていないからといって、自分勝手にやれば滅びます。」とは、そういうことかと…自分勝手はその場しのぎ、神様を中心としないところに永遠性や本当の自由はないということでしょうか。

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