創世記 第3章 1~6節 - Wikisource
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
旧約聖書での、善悪の始まり(人の内の善悪の誕生)の時のエピソード
禁断の果実のひとつ
知恵の木の実、善悪を知る木の実、呼び方はいくつか有るが同じものです
今の世界の私たちの基準で判断するなら、なぜ「善」と「悪」の違いを知ることになるのがいけないのか?
この部分からして、納得がいかない
なぜそれが、罪(人が生まれながら持つ罪、原罪)の始まりなのか?
神が命じた事を守らなかったから?
だがそれ以前におかしなことがある
神は善悪が有ることを知っていた...
それはつまり、善悪は神が作ったということになる???
この辺のキリスト教的に“正しい”解釈とはどういうものなのか等にはあまり興味はありません
そもそも、聖書自体が“誰か”の都合によってあちこち弄られ、書き変えられている
そして、人を騙したのはヘビ、悪魔、サタン
人は悪魔のせいで罪を着せられた...
でも最初に悪を作ったのが神なら、一番悪いのは神ということになるんじゃない?
これは聖書の抱える矛盾、限界
こうした矛盾を、解釈という屁理屈で覆い隠し権威を保っているのが教会
解釈のいろいろな違いで、醜い争いをしているのが各教派、団体
これはキリスト教に限らない
さらに悪い事には、人を救うはずの宗教が、聖戦や裁判の名の元に人を殺しているという矛盾
そもそも悪とは何か、なぜ存在するかを、既存の宗教は納得のいく、解る答えを示す事はできなかった
これは、永遠の謎なのか?
否!
答えは既に示されていた
『善悪がある』が永遠不変の真理ならば、「善悪がない」世界は創造すらもできない。二極分裂が元だと言うならば、善悪がない世界が産まれることはない。それが真理ならば、永遠に戦争が続く世界が真理となるから、世界平和や自由は絶対に実現しない。
しかし、平和や自由や天国が想像できるならば、『善悪がある』は真理ではないことを意味し、戦争をしているならば、それは、自らだけの天国を実現しようとしている手前勝手な行動だということになる。
魔釣りの魔コトの神と申しても、悪魔ではござらんぞ。今のままではそなたらが消えてしまうから、身魂のイノチが無くなるから、ミロクの世に生き返ることは出来んから、そなたらが楽に走って調和を乱し、自らも人も滅びる道に居ることを教えるために、楽に走ったそなたらに苦を与え、内にある悪を表に見せて、一人でも多くの者が、自ら気づいて真コトに改心してくれることを願って、今の今も、叩かれても蹴られても否定されても消されても、何と言われようとも、自ら悪者となりて、自ら悪魔となりて、何も文句を申さずに、真コト黙ってご苦労されて居る、この方が産み生んだ尊き神々様でござるのぞ。そなたらは何も知らんから、何でもかんでも自らを悪くするものは悪だと思っているから、真コトの神々様を悪魔じゃ等と申すことになるのでござるぞ。外が悪くなるのはそなたらの魔釣りが原因でござるのぞ。そなたらの、善悪分ける心のせいでござる。そなたら自身が悪魔を産む悪の根源でござるのぞ。そなたらが申す悪魔はマコトは天使でござるぞ。
創世記 第3章 24節
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
隔てられ、隠された真実への道
岩戸の話と通じるものを感じます
次回に続きます
幻の鏡の館 (善悪の正体と結末)
追記(おまけ)
ひふみ神示 補巻 月光の巻
第二帖
きすうときすうをあはしても、ぐうすう、ぐうすうとぐうすうをあはしてもぐうすうであることをわすれてはならんぞ。きすうとぐうすうをあはしてはじめて、あたらしき、きすうがうまれるのであるぞ。こんどのいわとひらきには ひるこうむでないぞ。あはしまうむでないぞ。
この箇所がはじめのアヤマチを指摘していると思います
国産み - Wikipedia
「島産み」の項目参照、産み出された島の様子が、ケルビムの描写に酷似している