3月28日 北茨城市 | Shinya Hirasawa BLOG

3月28日 北茨城市



 はじめに、3月11日 午後2時46分に起こった東北地方太平洋沖地震において、犠牲になられた皆様にご冥福をお祈り申し上げます。
被災地の皆様、そして被災地に家族やご友人がいらっしゃる皆様、お見舞い申し上げます。
一日も早くもとの生活が戻ることを心からお祈り申し上げます。


3月28日月曜日に、ぼくと友人の2人で乳幼児用のおむつやおしりふきなどの赤ちゃん用品、そして少量ではありますが食料を積んで、茨城県北茨城市にお届けに上がりました。

この日のことを書くべきかということについてはとても悩みました。
ぼくの文章ではもしかしたら正確にあの日のことが、現地の状況が伝わらないのではないかということを考えていました。そして、こうして書いている今もそう考えています。

しかし、あの日のことを今、書いておくことはぼくがあの場所を見た以上、すべきことだと感じました。

読み苦しい点などもあるかと思いますが、心を尽くして書きますので、どうか最後まで読んでいただければと思います。


 午後11時、物資積込みを終え、ご協力いただいた皆様に御礼と安全のお約束を済ませて、ぼくと友人は茨城県へ向かいました。

高速道路も回復し、次第に県内はガソリンの補給も可能になっていると現地の知人から情報を得ていたぼくらは、荷台いっぱいにした物資を携えて常磐道を走りました。

茨城県に近づくにつれて、だんだんと道のあちこちにひび割れや隆起が目立つようになります。
荷台の物資が落ちてしまわないかと冷や冷やするほどのものもありました。

クッションの良くない軽トラックでしたから、その一度づつほとんど定期的にやってくる大きな振動に、とても違和感を感じました。


 午後2時、北茨城市の高速出口を降りると、最初はとてものどかな風景でした。高いビルもなく、少し見渡せば自然が目に留まる、とてものんびりした光景。

ぼくらは最初に、事前に知人から聞いた情報を頼りにして市役所に向かいました。
市役所には事前に電話をしていて、物資の受け入れについてのアドバイスをいただいていました。

道中、地面に先ほどと変わらない程度の隆起と何度体感しても慣れない大きな振動は相変わらず続いていました。

市役所の近くまで来たところで保健センターの看板を見つけ、ここも避難所に指定されていたな、と事前にインターネットで調べた記憶を思い出していました。

避難所、と言ってもぼくにはその体験はないので、テレビで見る体育館や公民館を想像するしかありません。
そのときはほとんど気にも留めずに通り過ぎました。

市役所はとても立派な建物で、それはとても強い地震がきた後とは思えない姿でそこにありました。
荷台に物資を残したまま、市役所へと入り、受付の方にお約束していた生涯学習課の方を呼んでいただくようお願いしました。

どうやら市役所も避難所に指定されているらしく、一階のロビーにはジャージ姿のご年配の方がたくさんいらっしゃいました。

4階へと案内していただき、エレベーターの止まっている館内を階段で移動。
途中、3階が震災で家を亡くされた方々の相談窓口になっていることを知りました。
ニット帽子を深く被ったおばあさんが「すいません、すいません」と言いながら所定の用紙に記入されていました。

4階は他の階と違い、必要最低限の電気しかついていませんでした。
その暗さは、東京で節電しているコンビニを暗いと感じたときとは少し違うものでした。
まるで、この電気を消した分、すぐ近くのどこかの電気がつくことを本当にわかっていると言えばいいのでしょうか。
そんな慎ましい暗さでした。

担当の方にご挨拶を済ませると、裏の車庫を案内していただきました。
そこには数えきれないほどのダンボールの山と、その数とは見合わない人数の仕分けスタッフの方々。
これらすべてを各避難所に配る作業の大変さは想像に難くありませんでした。

ぼくと友人は相談の上、市役所に物資を預けることを止めました。

それは今も少ない人員をやりくりして街中を走り回っている市役所の方の仕事を増やすことにつながるように感じたのです。
東京までの行き帰りの分のガソリンを入れてあるあの軽トラックであれば、もう少し他にもできることがあると考えました。

 午後3時をすぎるころ、先ほど目にした保健センターへと軽トラックを走らせていました。
ぼくらはこの時点で最短で場所がわかるところへまず行くということで何か新しい情報を得られるのでないかという期待をもっていましたし、赤ちゃん用品は市役所に預けてもいったん保健センターに移され、各避難所からくる担当ボランティアの方々によって必要個数が持ち帰られるということを事前の市役所の方からのお話で伺っていたからです。

保健センターはすでに避難所としてではなく、そういった乳幼児用品の中継地点としてそこにありました。
真っ白な制服を着用した職員の方々に加えて、わずかばかりのご年配の方々、目深なニット帽とちゃんちゃんこを来た30代ぐらいの女性がいらっしゃいました。

東京からおむつやおしりふきを持ってきたことを告げると、「ありがとう」の言葉。そして「うちがこんなもらっちゃっていいのかな」という言葉がその場にいらっしゃったみなさんから、口々に出てきました。
ぼくはとっさに「みなさんにもらっていただきたくて持ってきました。受け取ってください!!」と言っていました。

特におむつは足りていないらしく、マミーポコを目にした方は笑顔で「あー、マミーポコあるよー」と言ってくださっていました。
そんな風に笑顔になってくださる方々も「食料は大丈夫、うちはあるから。もっと足りないところあるはず。」と。

保健センターにいらっしゃったご年配の方が「そういえばこの間、いわきのほうからここまで、食料はないか?」という人がいらしたことを教えていただきました。
このことについて、ぼくは福島を訪問した知人や友人から福島には物資があるという情報をもらっていたのでとても意外に感じたのを覚えています。

ぼくたちが北茨城市を物資のお届け先に選んだ理由は、約200戸が全半壊するほどの最大級の規模の被害市にも関わらず、報道されることが少ないこと。
また、福島原発の影響で避難されてきた福島県の方々を受け入れた上で、地元の約400人近い避難者の方々を市外からの物資支援のみで支えているというとても特殊な自治体であったことが挙げられます。

福島県は報道量も北茨城市に比べれば多く、現地にいらっしゃる方々に連絡をとった際も、もうさばけないほどに物資が届いていると聞いていたので、このご年配の方の言葉を聞いて、同じ福島県であっても場所によって大きく状況は違うことを教えていただきました。

そのご年配の方に「大津港のほうに行ったら、港を片付けてる人たちがいるから食べ物困ってないか聞いてみるといい。」と教えていただきました。

荷台の半分ほどあった赤ちゃん用品を保健センターに預けてぼくらは一度、大津港へと向かいました。



長くなりました。
次の記事へ続きます。