カシュガルの街角で
新疆ウイグル自治区カシュガルにて
新疆ウイグル自治区(しんきょうウイグルじちく)は中華人民共和国の西端にある自治区。ウイグル族の民族自治区であり、その領域は、一般に、東アジアの一部として定義されるが、場合によっては中央アジアのトルキスタン地域東部(東トルキスタン)とみなされることもある。
ウイグル族のほか、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域であり、自治州、自治県など、様々なレベルの民族自治区画が置かれている。なお、中国国内には北京の経度を基準に標準時を1通りしか公式に認めないため時差は存在しえないが、新疆では非公式に北京時間(UTC+8)より2時間遅れの新疆時間(UTC+6)が使われている。
伝統的には、テュルク系民族が多いことからペルシア語で「テュルク人(トルコ人)の土地」を意味するトルキスタンと呼ばれ、現在の国境を越えた幅広い地域の一角として、中央アジアの文化圏に属してきた。一方で、中国から西域と呼ばれたこの地域は中国との政治的・経済的な繋がりも古くから有しており、漢代と唐代には、中国の直接支配下に置かれた時期もあった。唐代後期、ウイグル帝国の支配下に入り、9世紀、ウイグル帝国が瓦解したのちも、ウイグル人の残存勢力による支配が続いた。13世紀、モンゴル帝国の勃興によりその支配下に組み込まれ、チャガタイとその子孫による支配が行われた。16世紀に至りヤルカンド汗国が地域を統一したが、17世紀末ジュンガルに征服された。
18世紀、清のジュンガル征服にともなってその支配下に入るに至り、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、「(新)しい(領)土」を意味する「新疆」などと清朝側から呼ばれた。19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は崩れたが、左宗棠により再征服され、1884年に中国内地並の省制がひかれて新疆省となった。
辛亥革命の後、清朝の版図を引き継いだ中華民国に属しながらも、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われた。これに対して1933年と1944年の二度にわたって土着のムスリム(イスラム教徒)によって民族国家東トルキスタン共和国の建国がはかられたが、国共内戦後の1949年に再び共産党支配下の中国に統一され、1955年に新疆ウイグル自治区が設置された。しかし、直後に開始された大躍進政策とその影響による飢饉のため、中国全土で数千万人ともいわれる、大規模な死者を生み出した。自治区の経済及び住民生活も大打撃を受けた。1962年には、中国共産党による支配に絶望した国境地帯の住民7万人以上がソ連領内に逃亡した。また、1966年には自治区内に文化大革命が波及し、モスクの破壊や紅衛兵同士の武装闘争により、混乱に拍車がかかった。
文化大革命が終結し、言論統制の緩和がなされた1980年代には、ウイグル族住民の中で、新疆ウイグル自治区における民族自治の拡大をもとめるうごきがみられた。また、海外の汎トルコ主義者が独立を主張する動きがみられた。しかしこのような動きを中国政府はきびしくとりしまっている。