長く日本を覆ってきた悲しみの超克 | イージー・ゴーイング 山川健一

長く日本を覆ってきた悲しみの超克

 3月11日の震災の悲劇は、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、さらに長期間におよぶことが確定した。震災は自然災害だが、原発の事故は明らかにヒューマン・エラー、すなわち人災である。
 そして昨日、福島第一原子力発電所の事故の評価が、国際的な尺度(INES)で、これまでのレベル「5」から最も深刻な「7」へ引き上げられた。
 海外のメディアはこのことを大きく報じ、これからは各国の日本を見る目はさらに厳しいものになるだろう。
 しかしこの件に関する菅直人首相の記者会見は、相変わらず要領を得ないものだった。さらにこの発表は統一地方選挙が終った直後に行われたのである。意図的にそうしたのだと疑われても仕方のないタイミングだ。

 ぼくらは、政治家と官僚と電力会社と、まともな報道をしない大手メディアに絶望している。長らく自分の中のそんな絶望感や無力感に向かい合ってきて、ぼくは一つのことに気がついた。そのことについて書く。
 今回の震災と原発の事故は、国難と言っていいレベルのものだ。この国難は、おそらく第二次世界大戦の敗北以来のものだ。日本の戦後の復興については多くのメディアがさんざん紹介してきたから、若い人達もなんとなく知っているだろうと思う。
 戦後の荒廃から立ち上がった日本が繁栄を実現し──それがこの3月11日に大きな転換を迫られたのは、少なくとも原発の事故に限って言えば、論理的な必然だったのではないだろうか。ぼくには、そう思えて仕方ないのだ。

 政治家と官僚組織と国策的な電力会社と、まともな報道をしない大手メディア。
 電力会社から安い電力の供給を受けることによって高度経済成長を成し遂げた企業、企業からの援助を得ることによってノーベル賞を獲得してきた学会。
 それは、もはや日本そのものなのであり、日本の全体と言うほかないのではないだろうか。

 若い人達は知らないだろうが、ぼくが生まれた1950年代の始め、日本は貧しかった。高速道路はもちろん、舗装されたまともな道路も少なかった。
「日本には道路はない。道路予定地があるだけだ」と言われた。
 国土が狭く資源がなく、経済的な展望はほとんど見込めなかった。生活苦から、共産党、社会党を中心にした社会主義運動が盛んだった。
 広島と長崎に原爆が落とされた日本には、冷静時代の米ソの核実験によって放射能の雨が降った。
「雨にぬれるると髪の毛が抜けてハゲになるぞ」
 そういう冗談とも恐怖の表現ともつかない会話を、子供だったぼくらはよく交わしたものだった。だから今回の原発事故で雨に注意しなければならないことになり、そう言えば昔もそうだったよなとぼくなどは思うのだ。

 日本人の原子力への反発とアレルギーは、第5福竜丸事件で決定的になる。この事件は広島と長崎につづく、日本の第三の被爆であると位置づけられた。
 反米と反核の世論が高まる中、しかし日本はアメリカの援助を受け入れ原発の開発にのめりこんでいったのだ。貧しかったからだとしか言いようがない。
 1957年8月27日、茨城県東海村の日本原子力研究所第1号実験炉が臨界点に達し、「原子の火」がともった。前年のインドの国産原子炉稼働に次いで、アジアで2番目の原子炉稼働国となり、原子力時代の第一歩を踏み出した。
 このことは明るいニュースだったのであり、原子炉の完成を祝って子供たちが旗行列する様子が報じられた。
 かくして日本は官民一体となり、2011年3月11日まで、ひた走ってきたのだ。
 あまりにも悲しい歴史だと言うほかない。
 そうなるかもしれないのはわかっていたはずなのに、決定権を持つ人達は誰も現実を直視しようとはせずに、必然的に3.11への道を歩んでしまったのだ。

 とにかく目の前の福島原発をなんとかして、何十年かかってもいいからあれを閉じ込めなければならない。これは日本国民ばかりではなく、世界の悲願である。
 ぼくら一人ひとりは見知らぬ気持ち悪さと恐怖と緊張感に慣れていかなければならないし、自暴自棄になってはいけない。被爆した放射性物質は蓄積してい く。外部被爆だけではなくて、空気を呼吸するとそこから内部被爆があり、水や食べ物を体内に入れればこれも足さなければならない。
 短期的な被曝線量でなく、累積被曝線量を考える必要がある。

 そんな今、とくに若い人達に見てほしいテレビ番組の録画がある。1994年に放送されたものだ。「TVウォッチBLOG」にその動画がアップされている。

 原発導入のシナリオ 「冷戦下の対日原子力戦略」
 NHK 現代史スクープドキュメント
 「毒をもって毒を制する」 第5福竜丸事件で反核・反米の世論が高揚する中、日米が協力し民間から行った世論形成の全貌を明らかにする。
 http://g2o.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-b5b1.html

 ぼくが十代の頃、「近代の超克」という言葉が流行ったものだった。超克というのは聞き慣れない言葉だろうが、「困難や苦しみにうちかち、それを乗りこえること」という意味だ。
 この「近代の超克」は対米英開戦という時局のもとに行われた、有名なシンポジウムの名前で、1942年7月に河上徹太郎(若き日のぼくのヒーローの1人です)を司会に行われた。「明治時代以降の日本文化に多大な影響を与えてきた西洋文化の総括と超克」というのがシンポジウムテーマだった。
 そのほぼ十年後に、しかし日本は密かに原発の開発をスタートしたことになる。「超克」などというきれいで勇ましい言葉はすっかり忘れ、物質的な繁栄を貪る方向へ官民一体となり舵を切っていったわけだ。
 この番組の録画を見ると、3.11はこの日本という国にとって歴史的、あるいは論理的な必然だったのだという想いが強くなる。
 件のシンポジウムのテーマは、明治時代以降の日本文化が、西洋文化を超克できるのかということだった。だとすれば、3.11はむしろ明治維新以降のあまりにも悲しい日本の歴史的、論理的必然だったのだと言うべきかもしれない。

 原子力発電は、今後、後退していかざるを得ないだろうと思う。
 針の穴に暗い中で糸を通すような作業を根気よく継続し、福島原発の事後処理がすべてがうまくいったとして、それから少しずつその他の危険な炉も廃炉を目指していくしかない。これまでのような無茶なことを、そもそも世界が黙視するはずがない。
 その過程で、ぼくらは新しい日本を、ソフト(藝術)とハード(産業)の両面からデザインしていかなければならないのだ。長く日本を覆ってきた悲しみを超克することによって、である。
 きっと、それは可能だろうとぼくは思う。
 たとえば谷崎潤一郎が「細雪」を書いたのは、川端康成が「雪国」を書いたのは、太宰治が「お伽草紙」を執筆したのは、先の国難とも言うべき第二次世界大戦下だったのだ。太宰は「お伽草紙」の着想を、防空壕の中で子供に絵本を読んでやっている時に得たのだそうだ。これらの華麗な文学世界は、一見古い日本を描いているように見えながら、実は作家達がぎりぎ りの場所で紡ぎ出した新生日本の精神的なグランドデザインだった。
 彼らにできてぼくらにできない理由は、何ひとつないはずだ。