強制起訴というマスコミ用語の罪 | 永田町異聞

強制起訴というマスコミ用語の罪

「強制起訴」という言葉づかいに違和感をおぼえる方も多いだろう。「強制捜査」を連想させるからだ。


強制捜査をする検察が下した不起訴の判断を、クジで選ばれた市民11人からなる検察審査会が二度の審査で否定し、「起訴議決」をすると、“にわか検察官をおおせつかる指定弁護士が起訴にむけて捜査資料解読をスタートする。


こうした新しいタイプの起訴が、検察審査会法の改正で可能になったのが2009年5月21日だった。この改正法は、国会で十分に議論されることなく成立した。


そして、この新型起訴のことを、誰がはじめたのか知らないが「強制起訴」と表現するようになった。


検察審の議決が拘束力を持つようになったことから「強制」という言葉に結びついたのかもしれないが、前述したように「強制捜査」との連想で誤ったイメージを生みやすい。


強制捜査の主体は検察という国家権力であり、強制起訴の主体は一般市民からなる審査会である。冤罪とわかった場合でも、審査会メンバーは責任を問われることはない。「市民」であることが免罪符となる。


ところで、検察が「強制」する相手が被疑者であることは明白だが、一般市民が「強制」する相手は誰だろうか。


検察審査会の市民たちは、検察の捜査資料を検討、審議し、この捜査資料なら不起訴ではなく、起訴すべきだという結論を下した。


すなわち検察に「ノー」を突きつけた。その意味では、直接、「強制」が向けられる相手は実は、検察なのである。


ところが、マスコミ用語として「強制起訴」は定着し、疑いをかけられた人物についてまわるようになる。


本来は、検察審査会の「起訴議決」による起訴というべきところだが、長ったらしいので「強制起訴」と、粗雑な言葉づかいをしているのが実態だろう。


それなら、「検察審起訴」とでもして、検察による起訴との区別を明確にするべきではないか。


さて、小沢一郎氏の起訴へ向けて指定弁護士がラストスパートにかかっている。強制起訴されたら、小沢氏は議員辞職すべきだという、奇妙な論理にうなずく国民が多いのも、強制起訴という言葉のイメージが影響しているに違いない。


秘書のせいにして逃げ回る巨悪の政治家を、正義の市民が団結して、お白州に引きずり出すという、チャンバラ劇のような仕立てに「強制起訴」がマッチしているということでもあろう。


マスメディアはもちろん、野党や民主党のかなり多くの政治家でさえも、元秘書三人が逮捕されたという外形的事実や、「政治とカネ」「説明責任」「強制起訴」といったキーワードの組み合わせによって、小沢悪徳ファンタジーを職業上、立場上の必要性からつくりあげてゆく。


おりしも、元秘書の一人である石川知裕衆議院議員が、東京地検特捜部に供述を誘導された証拠となる音声記録の存在が明らかになった。


昨年5月17日、起訴後に任意で再聴取されたさい、石川議員はICレコーダーで録音していたという。


昨日の日経に検事と石川議員のやりとりの一部が報道されている。


「もし全面否認するなら、徹底的にやってやろうじゃないかとみんな言っている」(検事)


石川議員が(小沢氏からの借入金4億円を)隠そうとしたことはないから供述を変えさせてほしい」と訴えると、「今更そんなことを言っても堂々巡りだ」と耳を貸さず、石川議員自身が受領した献金にも言及し「(別件で)いつでもやれるんだぞ」と脅しともとれる発言もあった。


すでにこの音声記録は東京地裁に提出、地裁は証拠採用するとみられている。


小沢氏の審査会起訴を問題にするとき、秘書の裁判を抜きには語れない。秘書が無罪なら、当然のことながら小沢氏も無罪だ。


その意味で、石川議員らに対する検察調書の信憑性を疑わせる録音の存在は、村木冤罪事件同様、無理筋、国策捜査といわれてきた小沢サイドへの特捜暴走を裏づける大きなニュースである。


にもかかわらず、小沢氏に対しては「強制起訴」される人物として、政界追放が当然とでも言いたげな論調がまかり通っている。


検察が不起訴にせざるを得なかった小沢氏が、裁判で無罪を勝ち取る公算はきわめて高い。元秘書たちも、検察による事件のでっち上げを主張するだろう。


菅首相は小沢氏の強制起訴と出処進退を結びつける発言を繰り返している。


与謝野馨氏に助っ人を頼んで霞ヶ関を味方につけた菅首相が、官僚の恐れる小沢氏を切るには、「強制起訴」という呪文が効能をもっている今しかチャンスはないということなのだろう。


それにしても、小沢氏が無罪になったとき、マスメディアはどのように言い訳をするのだろうか。


  新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)