Billie Holiday
Tenderly
逮捕、服役…
ジョン・レヴィ、借金、そして断ち切れぬ麻薬…
1951年、ビリー・ホリデイはアラジンという小さなレコード会社で何枚かのレコードを吹き込むが、批評家からは不評を買う。彼女はデトロイトで昔の恋人ルイ・マッケイと再会する。彼女が16歳のときにハーレムで知り合った男だが、その時には結婚をし二人の子供の父親となっていた。彼はビリーの新たなマネージャー役に納まり、彼女のキャリアの復活に貢献する。彼女は西海岸に落ち着き、ノーマン・グランツのレーベル〈ヴァーヴ〉と契約する。ここで彼女は自分に相応しいパートナーたちに巡り会う。トランペットのチャーリー・シェイヴァーズ、ギターのバーニー・ケッセル、ピアノのオスカー・ピーターソン、ベースのレイ・ブラウン、ドラムスのアルヴィン・ストーラー、サックスのフリップ・フィリップス。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルで売り出されたレコードは鮮やかな成功を収め、引き続きその他の幾つかのセッションが録音される。にも関らず労働許可は再び却下され、彼女は肉体的負担の大きいツアーとコンサート(アポロ劇場、カーネギー・ホール)に頼る生活を強いられる。
1954年、ビリーは昔からの夢を実現する。初のヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストのカール・ドリンカードを伴い、彼女はスウェーデン、デンマーク、ベルギー、ドイツ、オランダ、フランス(パリ)、スイスを回る。彼女がパリに立ち寄ったのは観光のためで、その後イギリスに向かい、そこでのコンサートは大成功を収める。このツアーは実り多く、ビリーにとっては最良の思い出の一つとなった。帰国すると、麻薬にもアルコールにもめげず、彼女は超人的な力を発揮する。カーネギー・ホールで唄い、ニューポート・フェスティバルに出演し、サンフランシスコで、ロスアンゼルスで唄い、ヴァーヴのための録音も続けた。〈ダウン・ビート〉誌は特別に彼女のための賞を設け、授与する。彼女は新しい伴奏者として若いメムリー・ミジェットを雇う。彼女との関係は単なる友情以上のものへと発展する。メムリーはビリーが麻薬を断つよう励まし手伝うが、失敗に終わる。彼女の影響を喜ばなかったマッケイによって、メムリーは追い払われる。
1955年4月2日、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールで催されたチャーリー・パーカー(3月12日死去)の追悼コンサートに出演する。サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、レスター・ヤング、ビリー・エクスタイン、サミー・デイヴィス・ジュニア、スタン・ゲッツ、セロニアス・モンクなどと並んで、ビリーがコンサートの終わりを告げたのは朝の4時頃であった。1955年8月、彼女はヴァーヴのために新しいアルバムを録音する。『ミュージック・フォー・トーチング』。ジミー・ロウルスのピアノ、ハリー・“スウィーツ”・エディソンのトランペット、バーニー・ケッセルのギター、ベニー・カーターのアルトサックス、ジョン・シモンズのベースそしてラリー・バンカーのドラムスを伴奏に彼女が実現した傑作の一つである。その後、彼女は西海岸でクラブの仕事を得る。