秀吉 | 辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

創作人形作家辻村寿三郎の作品を皆様にご紹介いたします。

皆様こんばんわ、ただいま群馬県の

日本絹の里にて「辻村寿三郎人形展 VOL.Ⅸ」が開催中です。

大分県の中津で辻村寿三郎の人形展が開催中です.。

特別企画展「辻村寿三郎人形展 VOL.Ⅸ」

日本絹の里
ジュサブロー館の創作日記
1月22日(土)~3月6日(日)

開館時間 9:30~17:00
入 館 料 :400円(320円)
大・高生:250円(200円)
中学生以下及び身体障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名様は無料
※( )内は20名以上の団体割引料金 入館料は税込です。
休 館 日 毎週火曜日(但し、祝祭日の場合は翌日)
お問い合わせ先
〒370-3511
群馬県高崎市金古町888-1
群馬県立日本絹の里
電話 027-360-6300
FAX 027-360-6301

花の宴より なか
ジュサブロー館の創作日記
1996年制作

写真をクリックすると大きいサイズで見ることが出来ます。
細かいディテールをご覧ください。

本名を仲(なか)といい、豊臣秀吉の生母である。

1513年、尾張国愛知郡御器所村に鍛冶屋を営み、
武家でもあった関弥五郎兼員の娘として生まれたとされる。

実際の生年は永正13年(1516年)とする説もある。

織田信秀の足軽組頭を勤めた木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀と秀吉を生む。

夫が病没すると、信秀の同朋衆とされる竹阿弥と再婚した。

その間に、秀長と朝日姫を儲けた。

秀吉は長浜城主となった時に母を城に迎えているが、
終生母を大事にしたことは有名である。

また、嫁にあたる高台院との仲も非常に良かった。さまざまな逸話から、
彼女が賢明な女性であったことが伺える。

天瑞院春岩。



戦国武将より 秀吉
ジュサブロー館の創作日記
1992年制作

尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれた。

当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。

その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継の地位を得る。

大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。

太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、
慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。

墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、
石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、
百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢


花の宴より おね
ジュサブロー館の創作日記
1996年制作

尾張国の杉原定利の次女。

1561年、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ(通説では14歳)。

その後、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。

2人の間には子供が無かったので、秀吉や自身の親類縁者を養子や
家臣として養育していった。その中でも加藤清正と福島正則は特に有名。

1585年、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所と称する。

1598年に秀吉が没すると、淀殿と連携して秀頼の後見にあたった。

1603年、養母の死と秀吉の遺言であった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に出家。

朝廷から院号を賜り、高台院湖月尼と称した。
まつかぜに とうて醍醐の 花の宴


大分県の中津で
辻村寿三郎の人形展が開催中.。

会場は中津家具という家具屋さんの2Fショールームです。

ジュサブロー館の創作日記
大分県中津市諸町1859-1
TEL 0979-22-2585

大分県の皆様、是非お出かけ下さい!