説教題 「ゆるされて生きる」

聖句 新約聖書 ローマ人への手紙第5章20節~21節

律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。



今回の聖句を聞いて、意味がよくわからない・・・ガーンと思いました。

そして、寒い季節になると街中でプラカードを持って立ちっぱなしの人の周辺に流れている聖句だな~、と思ったのであります。


ところで、「人権」
一見聞こえがいいようなこの言葉も、その根底にあるのは「自己中心」だということをお気づきでしょうか?
例えば一つの家庭の中、子供も、大人も人権を叫んだらどうなるでしょうか?
誰もが自分のやりたいようにやれないと叫んだらどうなるでしょうか?

秩序なき人権の先には崩壊しかないのです。

神なき人権、明確な良心なき人権は自己中心的にしかならないのです。


かつて、イエス様が現れた当初、イエス様は律法を軽んじる者として世の律法学者、権威ある者たちから排斥されました。
それは、イエス様の言われた内容・行われた行動が、それまで律法学者たちの重んじてきた信仰=律法を守る。という考えに一石を投じるものだったからでした。

罪からの解放・神の愛の本質とは、人間の作った律法を守ることで得られるものではないという内容です。
イエス様はその信仰の本質のもと、罪から多くの人をゆるされました。

しかし、多くの人にゆるすと言えば言うほどに、一方では律法学者から反対され、排斥され命さえも危険にさらされました。

イエス様はそれを知らずに救いのみ業を行っていた訳ではありません。

それは、イエス様ご自身が民をゆるしたのではなく、神様が人類をゆるしたかったから、命がけでそうされたのです。


私たち人間はゆるされるからといって、何をしても良いわけではありません。

じぶんの中に  というものを感じ、悔い改め、それをゆるされたならばその人はもう二度とその罪を犯すことはないでしょう。ゆるされて初めて、人は新たなる出発を与えられるのです。

実感でしか語れない心情の世界ですが、包み込まれるほどの大きな愛を見たときに、人は生まれ変わり、大いなる主体の為に生きていけるのだと感じます。

そして、神の愛の本質は「ゆるし」ですが、悪、間違ったことに対しては時に声を出して教えてあげなければなりません。


今回の聖句、始めは意味がよくわからなかったのですが、H牧師の説教を聴くうちに、心が整理されてきました。

いま、この日本を不景気だと嘆き、期待できる政治家がいないと嘆く人は多くいますが、わたしはこの日本を良くする為に何が出来るかと、まず自分自身の今を自覚し、視点、行動から変えていこうと努力する者となっていきたいと思いました。


今回の礼拝は、感想だけでなく説教として語られた部分もたくさん書きました。何気なく私の感想も入り混じっておりますが・・・


長い文章ですが、最後まで読んでくださって本当にありがとうございます!


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