人間釈迦の一生 | ONZA★HEAVEN

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仏教って日本人にとって身近でも、意外とその開祖である「釈迦」の人間としての一生は知らないものですよね。

釈迦はなんと「80歳」まで生きたんです。(え?知ってた?)イエスが「34歳」、ムハンマドが「62歳」、孔子が「72歳」ですから、覚者と言われる人の中でもかなり長命ですね。



「誕生」
シャーキャ族王・シュッドーダナの妃・マーヤーは、白い象が脇腹から身体にはいる夢をみる。その後、妊娠が発覚。マーヤーは故郷に帰る途中、現在のネパールのルンビニで出産した。マーヤーの脇腹から生まれた子供はガウタマ・シッダールタと名付けられた。

生まれた子供(釈迦)は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えられている。

生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティーによって育てられた。


「結婚」
釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。


「出家」
釈迦出家の動機は、釈迦族が農耕民族であったため、幼少の頃に田畑の虫をついばむ鳥を見たことなどにより日常的にこの世の無常を感じていたともされ、決定的となったのは四門出遊の故事とされる。

ある時、釈迦がカピラヴァストゥ城の東門から出る時、老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時、死者に会い、生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家バラモンに出会い、世俗の苦や汚れを離れたバラモンの清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった、という。


「苦行」
出家して6年(一説には7年)の修行の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。

その際、父・シュッドーダナが釈迦の警護も兼ねて同行させた5人のバラモン・五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑)へ去ったという。


「成道(悟りを開く)」
釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ネーランジャナー(尼連禅河)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ樹(後に菩提樹と言われる)の下で、49日間の観想に入った。

そして、ついに12月8日の未明に大悟する。これを「成道」といい、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修した。「仏陀」となったのである。ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。


「初転法輪」
釈迦は梵天と帝釈天によって衆生に説くよう勧められた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと釈迦は、鹿野苑へ向かい、初めて五比丘にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。その結果、5人全員が悟りを開き、仏陀の弟子となった。


「教団」
初期の釈迦仏教教団において最も特筆すべきは、三迦葉(さんかしょう)といわれる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。当時有名だった事火外道(じかげどう)の、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパを教化して、千人以上の構成員を持つようになり、一気に仏教は大教団化した。


「竹林精舎と祇園精舎」
ついでラージャグリハ(王舎城)に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。そして王舎城に入り、ビンビサーラ王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎を寄進する。

また、インドのシュラーヴァスティーにスダッタ(須達多)という、身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者」と呼ばれていた富豪がいた。スダッタは釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、彼に説法のための寺院を寄付しようと祇園精舎を寄進した。


「入滅」
仏陀は多くの旅をして多くの伝導して来たが、いよいよ多くの弟子を従え王舎城から(最後となる)旅に出た。托鉢が終わった仏陀はパーヴァーに着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

仏陀は、さらにここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラーに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マルラ族(マッラ国)のサーラ(沙羅双樹)の林に横たわり、そこで入滅した。

時に紀元前386年2月15日のことであった。これを仏滅(ぶつめつ)という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。





かなりかいつまんではあるが、こうして釈迦の80年の人生は終わったのである。