John Coltrane
Impressions
1961
1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』収録に参加。またアトランティック・レコードに移籍し、中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音。このころから単なるハード・バップ・テナー奏者から脱却すべく独自の音楽性を模索する試みが始まる。自作自演の曲が増え、また同じ曲の録音でありながら、異なるサイドメンを起用してテイクを重ねるなどの実験を行っている。
1960年春、マイルスバンドを脱退。その後マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズを中心に自身のレギュラー・バンドを結成しツアーに出ている。10月には自身のレギュラー・バンドで大規模なレコーディングを敢行。このときのセッションからは『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド(邦題:「夜は千の目を持つ」)』などのアルバムが発表されている。アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』のタイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、コルトレーンの最初のヒット曲となった。この演奏に現れる「3拍子+マイナー・メロディ+ソプラノ・サックス」という組み合わせは、以後コルトレーンの定型パターンとしてを繰り返し用いられている。またソプラノ・サックスは、コルトレーンに採り上げられたことを契機に楽器としての魅力が広く認知され、以後ジャズ・フュージョン系のサックス奏者たちの"必修科目"として盛んに用いられるようになる。
1961年、アトランティックを離れ、インパルス!レコードに移籍。3月にはマイルスのアルバム『サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(邦題:「いつか王子様が」)』の録音にゲストとして参加。その後、新進気鋭のリード奏者エリック・ドルフィーを自己のバンドに加えるとともに、アレンジャーとしても起用し、大型ブラスセクションによる録音に取り組む。一方でその直後に、アルバム『オーレ!コルトレーン』も録音している。前者の録音からはインパルス最初のアルバムとして『アフリカ・ブラス』『アフリカ・ブラス・セッション vol. 2』の2枚が発売。後者はアトランティックから発売された。 また秋にはニューヨークのライブハウス「ヴィレッジ・ヴァンガード」にほぼ連日出演したりヨーロッパツアーにも出ている。これらの演奏の様子は、後年『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を初めとする数多くのライブ・アルバムで聴くことができるようになってきている。