はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

創世記 第1章 第1~3節




いつもの事ながら、そこに至った過程が過ぎ去ってしまうとハッキリとは思い出せない。

自分の中で「結論」が出てしまった瞬間から、夢だったかの様に途中段階というものがどんどん薄れて行って終いには忘却の彼方だ。

自分自身にとってはどうと言う事はないけれど、人に説明するには少々難儀だ(笑)



「アレ」「ワレ」が、表裏一体同じモノであるという閃き。


「ワレ」に当てられる漢字を調べてみても、「我」、「吾」共に、アレ、ワレ、ア、ワ、の読みがあるようだ。

外側の何かを指し示す「あれ」と、自分を示す「われ」が表裏一体、太極図のように溶け合い、ひとつである事を表している。世界は私であり、同時に私は世界。

$被!無責任警戒警報発令局-陰陽


さらにもう一段の閃き、スパーク...


始まりの言葉が「光アレ」ならば、終わりの言葉は何になるだろうか?

最後は全て(統べて)元(はじめ)へと帰る(還る)ならば...

それはこんな言葉になるのかもしれない。



「ワレ(我)光」




おまけ

「吾」 本来の意味は守る。祝詞を入れる器(又は箱)「口」(サイ、くちでは無い)を、「五」木を斜めに交差させた蓋(又は武器)で守る。(ゴ)音の仮借。

「我」 左側は鋭いのこぎりの歯、右側は剣に長い柄を取り付けた「戈(ほこ、矛)」。二つの武器。(ガ)音の仮借。

「光」 「火」+「人」の会意文字。

「悟」 「心」+「吾」心の爽やかさや明るさを守る。



追記

「あ」はあなた。「わ」はわたし。

あなたは、私を通してあなたを知る。私は、あなたを通して私を知る。


追記 4/24

「言霊」島田正路 著
母音と半母音とは自と他、主体と客体、出発点と目的点、吾と汝という関係です。例えば アとワ とは吾と我(古代大和言葉では吾をア、我をワと呼びました)、そして二者の交渉で種々の現象を産み出しますが、吾も汝も共に純粋の主体と純粋の客体として自らは決して現れないのです。