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Billie Holiday
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ビリーことエリノラ・フェイガン・ゴフは、1915年にフィラデルフィアで生まれ、メリーランド州ボルチモアのフェルズ・ポイント地区で育った。

彼女が生まれたとき、母、セイディ・フェイガンは19歳。母子家庭で育てられ、父はクラレンス・ホリデイ17歳とされているが、確かなことは不明。ただ、母が「あなたの父さんはクラレンス・ホリデイ」と言っていたことから、「ホリデイ」を名乗る。

自伝『レディ・シングス・ザ・ブルース』によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という「子どものような」ふたりが結婚し、自分はその間に生まれたとされているが、これはビリー本人により捏造された話のひとつである。この自伝は、近年、ジャーナリストたちの尽力により、彼女が自分の出生を脚色していたことが明白になってきた。事実は、彼女が言うほど牧歌的なものではなかったようだ。クラレンスとセイディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれた子・エリノラを認知しようとさえしなかった。彼はジャズ・ギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏。昼は街頭を流して生活をしていた。母親のセイディにとっても娘の面倒を見る時間など無く、結果、エリノラは母の親族に委ねられてしまう。

母セイディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては異性関係を重ねた。異性関係―それは概ね報酬を伴うもの―、つまり売春であった。親族の家を転々として生活していたエリノラにとっても、日々の生活は楽なものではなかった。従姉アイダの暴力に耐えなければならないうえ、ある日、初めてトラウマ(心的外傷)を経験する。自分を腕に抱き、昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまったのだ。幼い彼女は死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚め、パニックを起こす。そのときの心的外傷後ストレス障害からエリノラは何週間もの間、酷い無言症を患うことになった。

数年後、母セイディはエリノラを再び手元に引き取った。だが彼女は相変わらず外泊が多く、そんなある夜、エリノラは近所の男に強姦されてしまう。イギリスの音楽ジャーナリストが著した『ビリー・ホリディ』によると、それは1926年、クリスマス・イブのことだった。朝、当時の恋人と一緒にセイディが家に戻ると、11歳のエリノラ(彼女の自伝には10歳だったと記載)が男とベッドの中に居たのだ。エリノラはすぐに医師の診察を受け、男は有罪になったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエリノラは、1925年に補導されたときと同様、カトリックの修道女が運営する施設「よきヒツジ飼いの家」に再送致される。1927年2月まで生活した修道院は、13~18歳の黒人少女が集められた更生施設だと謳っていたが、内情は虐待や暴行が日常茶飯事のように行われ、しかも事実上の感化院であった。

1928年、セイディは娘を取り戻し、ニューヨークへと移り住む。娘を売春宿に預けて再び売春を始めるが、1929年には母と共にエリノラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。

やがてビリーは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。大量のアルコールと朝まで響きわたるジャズ。無一文で、住むところも追い立てられる状況の中、地元のクラブで「Body & Soul (身も心も)」を唄うビリーに、観客は皆、涙したと伝えられる。様々なクラブで仕事をするようになったホリデイは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも唄い始めた。この頃、エリノラの父クラレンス・ホリデイはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。

そんな中、偶然に導かれるように彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。エリノラ、15歳。芸名を決める時期がきた。何でもよかった訳ではない。幼い頃、自分に会いに来た父が男の子みたいな娘をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに、父の姓をつけて芸名とした。不世出のジャズ・シンガー、「ビリー・ホリデイ」の誕生である。