「日本を一つに」異論 | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

大震災を機に、今こそ「日本を一つに」という風潮が世の中を席巻している。

今回の震災は、1万人以上もの人の命が失われ、多くの街が壊滅的な被害を受け、復興するのにとてつもない時間と労力が必要で、日本中の人たちの力を合わせる必要があるのはそのとおりだろう。
さらに、今回の震災は原発が大きく絡んでいて、今後この原発をどうするかということは、被災地の問題だけではなく、この国の在り方の問題となる。その意味でも、日本で生きていく以上、自分たちの問題として降りかかってくる。

こういったところには何ら異論はない。
少しでも力になれればと思い、微々たる額ではあるけれど募金もした。
今後機会があれば法律相談にも行こうと思う。

ただ、このこととは別に、世の中を席巻している「日本を一つに」という風に違和感を感じずにはいられない。

この違和感がなんなのかを少し考えてみた。

戦後65年の中で、今日本が一番大変な時期かもしれない。
この時に、この国のリーダーである菅首相が「日本を一つに」と言うのであれば違和感を感じない。
しかし、今、吹き荒れている「日本を一つに」という声はそうではない。
菅首相の声は特に最近聞こえてこない。
今吹き荒れている声はマスコミなどのメディアが扇動しているものだと思う。

「日本を一つに」という言葉にはとても大きな危険が孕んでいる。
私はもちろん戦争を経験していないから、イメージでしか語ることはできないが、なんとなく戦時中のイメージが漂う。
そして、「日本を一つに」というのは、個を捨てるということである。戦時中がそうであったように。
私は、どんな場合であっても、国民は国家から自由であるべきだと思うし、そうありたい。
人は「他の人とは違うことをしたい」、「バラバラでいたい」、「縛られたくない」願望を本質的に持っていると思う。そういう前提で、統治者が国をある方向に導くために個を制限させる、そして被統治者である国民は常にそれに反発しながらも導かれていくというのが健全な姿ではないかと思う。
少なくとも私は他の人と違うことをしたいし、バラバラでいたいし、縛られたくない。
ところが、今の日本は違う。国民自らが縛られようとしていて、それに違和感を感じずにみなが同調しているように思う。

このように考えると、私の違和感の源は、統治者ではなく、被統治者である国民の側から「日本を一つに」という言葉が出てくることの気持ち悪さなのではないかと思えてきた。

言いかえれば、統治者と被統治者の混同ということか。
私は今の日本では、この統治者と被統治者の混同ということが至る所で生じているように思う。
その一つの例が刑事裁判にもある。
何かの事件が起き、刑事裁判になった際、メディアをはじめ多くの国民の声は、
「犯人は死刑にすべき!」「犯罪者の味方をする弁護士もけしからん」
といったものであることが多い。
しかし、刑事裁判は、国家が国民の生命、自由を奪う手続であって、これほど恐ろしい場面はない。
国民は、国家が不当に国民の生命、自由を奪うことのないように監視する役割を担っている。
不当な刑事裁判が行われるということは、いつ自分も同じように生命や自由を奪われるかわからないということである。
そういう意味で、国民は、被告人の側にたって刑事裁判を見ることが求められているはずである。
ところが今の日本では、多くの国民、メディアは、権力の側に立って、国家と一緒になって被告人に罪を与えようとしている。

まさしく統治者と被統治者の混同だと思う。

そういうわけで、今日もまた小難しい話をしてしまったけれども、私は「日本を一つに」と言われたら反発したくなる。マスコミが煽りたてる今の風潮に異論を唱えたい。
そんなことを煽りたてなくても、みんな自分なりに被災した人たちのこと、この国の将来のことを考えているわけで、みんなが思うようにやればいいじゃない。放っておいてくれ。