説教題 「キリストとは」

聖句 新約聖書 ヨハネによる第一の手紙第4章9節~11節

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちわたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。


そして、もう一つ、今回の聖句の重要なポイントになった聖句であります。
「富める青年」と言われる有名な箇所であります。


新約聖書 マルコによる福音書第10章17節~27節

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、
「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
イエスは言われた、
「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
すると、彼は言った、
「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、
「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、
「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、
「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
すると彼らはますます驚いて、互に言った、
「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
イエスは彼らを見つめて言われた、
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。



今回の礼拝は、クリスマス礼拝という事で、たくさんの歌や、ダンスの賛美がありはじめから霊性あふるる雰囲気の中行われました。

今回の説教で、私はとても感じるものがありました。今の自分自身抱えている気持ちに投石されるような内容だったからです。


さて、上述した2番目の聖句は、聖書の中でも有名な箇所です。

ただ単にこの聖句を読んだだけでは、お金持ちが天国に入るのは難しいのだ。という平面的な感想を持つことでしょう。
しかし、この青年がもし、イエス様の言葉に聞き従い、嫌々ながらも財産を貧しい人たちに施したなら、彼は神の国に入れるのでしょうか?

答えは、NOです。

この聖句はいったい何を言っているのでしょうか?
また、弟子たちの言うように、あんなに基準の高い青年さえも神の国に入れないとしたら、いったい誰が神の国に入れるのでしょうか?

ヒントは、この青年の
「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
という言葉にあります。


青年は、十戒を小さい頃から当たり前に守って、篤実な信仰者ではありましたが、永遠の生命を得るには、どうしたら良いのか??とイエスに聞きました。

これは、自分の努力、才能で幸福が得られるという意識にあったのです。
自分でやろう。自分で幸福を得ていこう。という思いです。

もちろん、努力することや才能を磨くことはとても大切です。

しかし、前述したようにその青年が永遠の幸福を得たいから。と言って嫌々ながらもイエス様の言うように財産を売り払ったとしても、それが永遠の幸福を得ることにはならないでしょう。

では、青年はどうしたらよかったのか?


「イエス様、私は今まで永遠の生命(=幸福)を得るために信仰を重ね、戒めを守り、とても頑張ってきました。しかし、イエス様の言われた「貧しい人の為に自分の財産を全て売り払う」ということには、大きな葛藤を感じています。私はいかに、今まで自分が築き上げた努力や財産を、神様を拝しながらも、神様より一番大切に思っていたかということを知りました。このような罪深い自分ですが、神様の願われる方向、イエス様とともに行きたいのです。どうしたら良いでしょうか」

と例えば、青年がこのように自分の努力や才能、築き上げた財産よりも、
神様を一番に愛し、神様に委ねることに
心からの安心感、信頼感があり、
それがすなわち永遠の生命(=幸福)だ!と感じられたならイエス様のもとを立ち去らなかったでしょう。


ともすれば、信仰生活をしていながらも、私自身もこの青年のような「自分が頑張らなければ、幸福になれない」という心を持っていたことに気付かされます。

私は、信仰歴8年目になりますが、今まで一般の会社で勤労しながら信仰生活をしてきました。
その途中では、献身者になって、神様の願われるままに教会で働きたいという思いを何回も思っていましたが、様々な事情もありずっと勤労青年な訳です。

そして、自分よりも後輩の方々が献身され、教会のスタッフになっていく姿を見て、複雑な気持ちを持たざるを得ませんでした。

なんで私はこんなに頑張っているのに、認められないのだろう。という気持ちが強くなっているここ最近でした。

でも、自分が願う場所に行くこと。必ずしもそこに救いがある訳でない。

と礼拝をこうして記録して反芻することで気付かされています。


神様のこの世をお造りになったご意志、それは必ずしもある。

神様の一人一人に対するご意志、私へのご意志、それは必ずある。


大いなる神様に生かされてこの世に生を受けられていることに感謝いたします。
そして、その神様のご意志と心情の世界を知ることが出来たのも、イエス様ゆえ、文鮮明先生ご夫妻ゆえであります。

今、思うとイエス様という方はとてもロックンロールな方ですよね。
人の動機を見透かして、本心の方向に向かわせるといいますか・・・

日本は政治不信など様々な問題を抱えてはおりますが、これからは神様願われる方向(本心)に還っていくのだと思います。自分を犠牲にしても他を生かそうとするイエス様の生き様には多く倣うべきところがあります。

そのような大いなる愛に、何故か無宗教な日本人さえもクリスマスを祝ってしまうのでしょう。


とても長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。
もしかしたら、今年最後の更新かもしれませんね・・・

今年はお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
残りの日、良いお年をお過ごしください。
ありがとうございました。

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