Billie Holiday
Yesterdays
1941年以降からの数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。ロイ・エルドリッジ、アート・テイタム、ベニー・カーター、ディジー・ガレスピーというそうそうたるミュージシャンたちと仕事をする反面、私生活は、彼女が唄う歌と同じくらい荒れていた。彼女はトロンボーン奏者であり、麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母親と住む家を出て早々に結婚する。彼はビリーにアヘンを教え、次いでコカインを覚えさせた。
ジミーと結婚はしたものの、ビリーの情事は終わらなかった。彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインに手を出した。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、彼女はジョーの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。 ビリーは当時を振り返ってこう語っている。 ―「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」―
やがて、ビリーについて「契約を守らない」、「よく舞台に遅れる」、「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するように、1945年、ジョー・ガイはビリーのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にビリーの母セイディの訃報が飛び込んで来た。レスター・ヤングが「公爵夫人(デュシェス)」と呼んだ、母の死。ビリーは嘆き悲しみ、鬱状態に陥る。アルコールと麻薬への依存はさらに深まり、結局ツアーは途中で打ち切られてしまうのだった。
1947年、大麻所持により逮捕。その年にジミーとの離婚を機にジョーとも別れた彼女は、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間服役生活を送る。だが、それによりニューヨーク市でのキャバレー入場証が失効してしまい、それから12年間キャバレーへの出演ができなくなってしまう。