説教題 「神を信じ、私を信じなさい」

聖句 新約聖書 ヨハネによる福音書第14章1節~6節

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」
トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。


H牧師は、古川第一郎先生という方の「十戒にこめられた神の愛」という本の中で言われている内容を紹介してくださいました。

一般的に宗教とは、戒律や決まりごとがたくさんあるイメージかと思います。
有名な、モーセの十戒においても「偶像を拝んではならない。姦淫してはならない。・・・」と、○○してはならない。ということばが多く並んでいます。

「十戒にこめられた神の愛」には、神様から何か制限されるというような観点ではなく、
もう偶像を拝まなくても良いんだよ。姦淫しなくても良いんだよ。という意味の神の人間に対する愛が込められているという内容で、H牧師はそれを読んだ時に「なるほど」と思ったそうです。

私も、なるほど~。と思いました。

今回の聖句も、イエス様は「もう、心を騒がせる必要はない」と言っているのだと知りました。

人の三大欲求は大脳生理学的に言うと、「睡眠欲・食欲・存在欲」だということです。

人は誰しも、自分の居場所を求めて生きています。私自身もそれには実感があります。


み言葉を聞く前の7年前の私は、創作活動をして人からの評価を得ることで、自分の存在価値を得ようと必死で、評価を得るときは満足感や充足感があり、居場所を見出すことが出来ました。
しかし、それを得ようとする自分の努力や才能には限りがあるのだと、なんとなく本心ではわかりながらも突き進んでいたような気がします。

この聖句でイエス様が言われているのは、「あなたたちは心を騒がせないで良いんですよ。私が行って、あなたたちの住む場所を準備します。ちゃんと、居場所があるから!そう、信じるに値する内容が神様にはあるのですよ。信じて!」
というような意味だとH牧師は仰いました。

み言葉を学んでから、そんな神様の愛を感じて、自分という存在がいるだけで赦されている存在なんだと感じるようになりました。

だからと言って、今まで自分のやってきた創作活動を怠けるようになったわけではなく、より一層全力を込めて一瞬を生きるようになりました。

そして、人間に対して、自分に対して希望を見出せるようになりました。

人はどういう環境が与えられてもそれに対してどう反応するかはその人の自由があるのだと、ナチスドイツ下の強制収容所で命を永らえたユダヤ人精神科医ヴィクトル・フランクルは言っています。

神様を知り、どんな環境に対しても希望を見出すことが出来る自分になれたことに奇跡を感じます。(多少の時間はかかったとしても・・・)

それは、神様の本当の姿を知ったゆえ、神様の悲しみも喜びも共有させていただいたゆえです。


今回の礼拝は特に、霊性溢れていて、涙をとめられないというような兄弟姉妹の涙の音が聞こえてきました。

神様と、イエス様、そして神様とイエス様の心情を解明し生涯を通して教えてくださった文鮮明先生ご夫妻に出会えたことに改めて心から感謝します。


長い文章ですが、最後まで読んでくださりありがとうございます。




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