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The Allman Brothers Band with Duane
Dreams
Fillmore East - 09/23/1970


オールマン・ブラザーズ・バンドは、70年代の最も影響力のあるバンドの1つとなった。過去5年間に現れたこの国のベスト・バンドだ、と「ローリング・ストーン」誌のジョージ・キムボールは1971年に評している。数ヶ月のリハーサルとギグの後(この中には、メイコン・セントラル・シティ・パークとアトランタ・ピードモント・パークのフリーライブも含まれる)、彼らはバンド名を「The Allman Brothers Band」に決め、登録した。

彼らのデビューアルバム「The Allman Brothers Band」は、1969年9月ニューヨークでレコーディングされ、2か月後発売された。猛烈なツアーの中頃、セカンド・アルバム「Idlewild South」の作業をメイコンとマイアミ(それぞれAtlantic Southとクライテリア・スタジオ)で仕事を始め、ニューヨークでもわずかに進めた。大部分がトム・ダウド (Tom Dowd) によってプロデュースされ、「Idlewild South」は1970年夏に発売された。

マイアミでの公演によって、デュアンはエリック・クラプトンの「レイラ」に参加するチャンスを得た。クラプトンは、長い間デュアンに会いたがっていた。クラプトンは、オールマン・ブラザーズ・バンドが公演のため、マイアミにいることを知った。マイアミでクラプトンは、トム・ダウドと「レイラ」の作業を始めたばかりで、トムはクラプトンにコンサートを観に行くよう強く進めた。このコンサートで、クラプトンとデュアンは知り合った。

2つのバンド(Allman Brothers Band and Derek and the Dominos)のライブの後、クリテリア・スタジオに戻り、夜を徹してジャム・セッションを続け、デュアンとクラプトンはすぐに信頼関係を築いた。「スタジオを観に来ないか」とデュアンは慎重にクラプトンに聞いた。クラプトンは断り、デュアンにギターを持ってくるように言い、「プレイしてくれ」と言った。デュアンは数多くのアルバムに参加することになったが、クラプトンとの共演は彼の最もよく知られた作品の1つになった。デュアンは、クラプトンからメンバーになるよう誘われたのだが、彼はオールマン・ブラザーズ・バンドを離れることはなかった。彼は、デレク・アンド・ザ・ドミノスとは一緒にツアーをしなかったが、1970年12月1日にカーティス・ヒクソン・ホール(Curtis Hixon Hall)で、後日オノンダガ・カウンティー・ワー・メモリアル(Onondaga County War Memorial)で彼らと出演した。

インタビューでデュアンは、誰が何を弾いているのか、どうやったらわかるのかを述べている。エリックが弾いているのはフェンダーの部分、自分が弾いているのはギブソンの部分。フェンダーはsparklier soundで、ギブソンはもっと全体がかん高い音に傾いている(full - tilt screech)。

1971年3月、オールマン・ブラザーズ・バンドは「At Fillmore East」を録音した。このアルバムは、ライブ・アルバムの中でも偉大な作品の1つである。合間に、彼は出来るだけ他のアーティストの作品への参加を続けていた。彼の伝記である「Skydog」によると、彼はスタジオを不意に訪れ、その日録音しているものなら何にでも参加するという癖があった。彼は現金を受け取るのだが、レコードのクレジットに名前を明記しなかった。そのため、彼の作品の完全なディスコグラフィーを編集するのは、事実上不可能である。





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