こんにちわ、DBユーヤ・エメリヤーリエンコです。
昨日、香港で中国の民主化運動に対する武力弾圧で大勢の死者が出た天安門事件の追悼集会が行われました(天安門事件22年、香港で15万人集会にて)。今日は天安門事件(正確には64天安門事件もしくは第2天安門事件)を取り上げます。

まずは天安門事件(正確には64天安門事件もしくは第2天安門事件)とは何かについて説明

六四天安門事件(第2天安門事件とも)とは、1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺した[『天安門文書』張良著(文藝春秋 2002年にて]との報告がある)し、多数の死傷者を出した事件である。後にノーベル平和賞を受賞した劉暁波も参加したことでも有名。


次はなぜ天安門事件が起きたわけと事件の経過
前述のとおり、この事件は抗議者からの異議を寛大に取り扱っていた胡耀邦の死がきっかけとなった事件であり、胡耀邦の葬儀までに、10万人の人々が天安門広場に集まった[Keesing's Record of World Events". Volume 35, p. 36587. 1989. にて]。抗議運動自体は、胡耀邦の死の4月15日から続いていた。統一がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[Nathan, Andrew J. (January/February 2001). “The Tiananmen Papers”. Foreign Affairsにて]に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた中国中の都市に波及していった。1989年6月の初頭、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して実弾を発射したり洗車で引きごろしたりして、天安門前を一掃した。ニューヨーク・タイムズのニコラス・D・クリストフ (en:Nicholas D. Kristof) は「正確な死亡者数は、おそらくは分かっていないだろう。そして、数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。しかし、今現在入手できる証拠に基づけば、400人から800人の民間人と一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かなようだ」という"[Kristoff, Nicholas D. (21 June 1989). “A Reassessment of How Many Died In the Military Crackdown in Beijing”. The New York Times. にて]。


衝突後、中国当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行、自国の周辺でのほかの抗議も厳重に取り締まり、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。天安門広場に集まった抗議者たちに対して公然と同情した総書記の趙紫陽(当時)は共産党から追放され、数人の高級党員の監視による自宅軟禁下に置かれた。


通常、「天安門事件」という場合はこの事件を指す。中国においては1976年4月5日に周恩来が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別して「第二次天安門事件」と呼ばれることがある。


抗議者に対する中国共産党政府による武力弾圧に対しては、広範な国際的非難が集まった[Nathan, Andrew J. (January/February 2001).にて]。ソビエトの公文書によれば、ソ連共産党政治局が受け取った情報報告では「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている[Berlinski, Claire, "A Hidden History of Evil", City Journal, Spring 2010.にて]が、この事件による死傷者については前述の中国共産党による報道規制により客観的な確定が不可能であり、前述の400人から800人や数百人から数万人など、複数の説があり正確な犠牲者数については分かっていない。因みに、天安門広場から完全にデモ隊が放逐されたあと人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があり[『チャイナハンズ-元駐米国大使の回想』ジェームズ・R・リリー著 西倉一喜訳(草思社 2006年)p.313
にて]、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。


次はこの事件による影響

事件後、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙(事実上の逮捕)が行われた。そのような中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した後亡命、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が香港などを経由して西側諸国へ亡命した。

また、中国共産党首脳部の強硬派が、密かに行った自国民への虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。

中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」の司会者である張宏民と杜憲は、喪服をイメージさせる服装で6月4日の放送に臨んだ。訃報を伝えるような速度でニュース原稿を読み、抗議を表したという。張宏民は許されたが杜憲は1992年に中央電視台を退社、2000年から香港のフェニックステレビでアナウンサー業を再開させている。



余談だが、全世界で六四天安門事件に最も早く反応したのは、当時イギリスの植民地であるものの、その住人のほとんどが華僑で、中国への「返還」を8年後(1997年)に控えた香港である。このような非民主的な行為をする中国共産党に抗議デモが起こっています。

この天安門事件を見ていて俺は、エジプトやシリア、イエメンなどの抗議デモを思い出しました。政府軍によって抗議デモの弾圧が行われてる点が同じだからかもしれません。この事件(天安門事件)をわれわれは忘れてはいけないと俺は思ってます。そういえば、シリア中部の都市「ハマ」郊外で戦車部隊が展開したというニュースがあります(シリア中部 軍展開で緊張高まる
6月5日 8時33分
にて)。最悪の場合、天安門事件の再来になるかもしれません。それだけは回避してもらいたいです。

今後も、俺のブログでいろんな歴史を取り上げる予定です。期待しててください。

ドクターブロガー・ユーヤ・エメリヤーエンコのブログ-香港で毎年行われるキャンドル集会
香港で毎年行われるキャンドル集会(これは3年前の2008年の写真)<
ドクターブロガー・ユーヤ・エメリヤーエンコのブログ-天安門
天安門
ドクターブロガー・ユーヤ・エメリヤーエンコのブログ-天安門事件の写真
当時の事件の写真

参考資料・サイト
ウィキペディア・天安門事件
「六四天安門事件」、真実の写真がネットで大反響=中国
天安門事件の写真(残酷描写アリ・グロ注意)
など