$ゲンキポリタン|愛と勇気の生活ブログ

人間の暮らしには自然があります。
自然の高さ、深さ、広さには太刀打ちできません。
人間の心も自然なものです。
やはり、高さ、深さ、広さがあり、コントロールできません。

京都の庭園は、自然を自然を使って再表現しています。
身近な盆栽は、そのいい見本です。

人間の心も同じで自然を再表現する道具だと考えたらどうでしょうか?
自然には四季があり、人には年齢があります。
春は青春期でないと描けないという意味ではありません。

90歳の人が春を表現してもいいのです。
18歳の人が冬の枯れ木を表現してもいいのです。
それぞれの感性で描くのですから、つまり生活はキャンパスなのです。

では、来月は夏の光景を暮らしで表現してみますということでもいいのです。
アロハシャツで過ごしますではありません。
自分にも判りませんが、夏の朝の空気を生活で表現する。夏の夕日の美しさを生活で表現する。自分が朝の空気になります。夏の夕日の美しさになります。
つまり「夏の夕日のような人」になってしまうわけです。どんな感じなのでしょう。

自分の全身全霊を素材にして、使い倒した表現力が問われます。


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