iPhone=義体説。
iPhone3Gの内蔵電池が、購入して丁度1年を経たあたりで、
完全にお釈迦になった。(1年は、もつところがミソである。)
しばらく充電コードや外部電池に、都度々々つなぐなどして、誤魔化していたが、
スケジュール帖の全部が、この1年で完全に「これ」に移管したので、
慢性的な電源オチ状態は、さすがにその不便さに耐えきれなくなり、
時間を捻出してビックカメラに電池交換に行った。
電池交換といえども、要するに全交換である。
作業は10分程度であっさり完了した。
(事前のバックアップ作業は、途方もなく意味不明な長時間がかかったが・・・)
その時、思ったこと。。
iPhone本体は、デバイスであって、デバイスでないんだな、と。
人間(自分)に対しての「道具」としての「存在感」は、
本体よりも、むしろイタリア製の、赤い革の「カバー」の方にあり、
また「道具」としての重要な「機能」は、
本体よりも、むしろ「クラウドサーバー」の方にある。
このツルツルした「本体」は、まるで暫時、更新される「OS」のように、
より高性能と、より万全な動作を求めて、常に乗り換えられる「義体」のようなものなんだな、と。
(そして、ゴーストはクラウドにあるんだな、と。)
おなじみのインターフェイスの色味が少し茶色っぽく転んだことに、
不思議な「違和感」を感じたのは、
「眼球」が変わったから、世界の色味が変わって見えるようなものだ、
しょうがない、と自分に納得させる。
法事で故郷に向かう新幹線の、窓から見える風景は、
過去10年、まったく変わったようには見えないのだが、
この新幹線の席で、移動しながら使える情報デバイスは、
過去10年で大きく進化し、ここ1年半でさらに大きく進化した、、と思った。