南三陸町を訪れて | 美智の未知なるものへ向かって

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音楽ユニット「RAY RAYON」ボーカル美智の、あくなき挑戦をつづる元気いっぱいの前向きブログ♪

今日で震災から二ヶ月です。私の中ではあの日から時計が止まったようにも思えるし、一方でははるか昔の辛いことにも思えます。



4月の中旬に宮城に帰って、被災した叔母たちに会うことができました。母の妹である叔母二人は、それぞれ、南三陸町志津川、気仙沼市片浜という港の目の前にある家に嫁いだのでした。


とにかく、「生きていた」ということを喜び、その日の夜は一族みんなでお酒を交わしました。叔母二人は、時折涙を浮かべながら当日の様子を語ってくれました。



南三陸町の叔母は、勤めている会社が高台にあったことで、津波に遭わずにすみました。


叔母の旦那さんの家では、観光タクシー会社を営んでいます。社長である観光のおじいさんは、地震直後にすぐに津波が来ることを悟って、社員全員に無線で高台に逃げるように指示しました。観光のおじいさんは、まず自分のマイカーを高台に置いて、あとは会社にあったタクシーをせめて一台でもと、取りに戻ったそうです。サイドミラーには、大波が背後から襲ってくるのが見え、危機一髪で津波から逃れることができました。

陽気でとても人のいいおじいさんです。何かに守られているんじゃないかという奇跡的な助かり方でした。最初に避難させておいたマイカーの場所には、津波が来て、車はさらわれてしまっていました。初めはそこで待機しようとしていたので、紙一重で助かったのでした。


後日、観光のおじいさんが私の実家を訪れたのですが、なんと仕事用のタクシーでやってきました。マイカーが津波被害に遭ったためですが、その愛車を助けたということが胸に迫ってきました。津波によって会社も自宅も全滅でしたが、観光のおじいさんはプレハブを建て、いち早く観光タクシー業を再建させていました。バイタリティある強いおじいさんです。

「まぁ~娘二人、浜に嫁がせたのが悪かったなぁ~ワハハハ」

なんて言いながらもう前を向いて元気に頑張っています。




さて、話しが戻りますが、今度は気仙沼市の叔母の話を聞きました。

気仙沼の叔父叔母夫婦は、二人とも小学校の先生です。震災当日は学校の勤務時間だったため、高台にある校内で地震に遭い、津波を免れることができました。下の子二人が、中学生と高校生です。気仙沼では海岸にあった石油タンクが津波で流され、11日夜それが引火して大火災が引き起こされてしまいました。叔母はその夜、息子たちの安否を確認するため、学校から市内の方へと車で向かったそうです。叔母はハンドルを握りながらまるで火の中に向かっていくようで、本当に怖かったと言っていました。

学校の位置からして、津波を直接見ることはなかったそうですが、とにかくこの世の終わりかと思うようなすごい音が響き渡っていたそうです。家々が飲み込まれたり、電柱や木がなぎ倒されていく音だと言うことですが、メキメキメキっという音や、ゴーンゴーンと何か絶望の鐘の音にも聞こえるような緊迫した空気に包まれていたと言っていました。

叔母夫婦と同居していたおじいさんは今も行方不明です。目撃した人いわく一旦は高台に避難していたのですが、おじいさんは物を取りに自宅へと引き返したそうです。亡くなった奥様の位牌でも取りに帰られたのでしょうか。とても、悲しく辛いことです。



私は、今回のこの地震で沢山のことに気付かされました。当たり前ではないことを沢山知りました。自分にできることはなんだろうと己の無力さに苛まれました。

叔母たちに、ほんの気持ちだから、と影でこっそりお見舞をお渡ししたときに、気仙沼の叔母は姪っ子からこんなにしてもらって、と頭を下げてくれました。

南三陸町の叔母は、「申し訳ない・・・、こんなに気持ちを向けてもらって」とたちまち泣き崩れていました。

普段、ひょうきんで明るい叔母ちゃんの涙を見て、私も恐縮すると共に、その辛さや思いが一度に伝わってきて、生きていてくれたからこそ味わえることなんだと思いました。こちらこそ、叔母ちゃん無事でいてくれてありがとうね、と伝えました。

この場面は、私にとって一生忘れられないことです。どんなことがあっても、叔母たちのことを思えば頑張れると思いました。




次の日、父と母と三人で、南三陸町を訪れました。父も母も震災後現地に行くのは初めてでした。どうしても目に焼き付けたいと言って、渋る親を私が無理やり連れていきました。叔母の家を見なきゃ、志津川を見なきゃという思いでした。



登米市から、南三陸町へ行くには、山の中を通って、トンネルをくぐっていきます。途中では、自衛隊の車と何度もすれ違いました。入谷という南三陸町の入り口になる地域を訪れたとき、がれきが目に入ってきました。

一瞬、あれ?ここにがれきを撤去してるのかな?と思いました。

父母もそう思ったようでしたが、車を走らせるうちに気付きました。いや、津波はこんな山の中まで来ていたんだ、と。



車を運転する父は、泣きながら、うわ~っと叫んでいました。母も泣いていました。南三陸町の町内にさしかかって、言葉を失いました。

スーパーが、病院が、家々が、がれきの山になっていました。あちこちの建物に車が突っ込んだままになっていて、さながら映画のセットのようです。

現実感はまるでなく、ハリウッド映画にでもありそうな、新型爆弾が落とされた町のような景色がそこにありました。


叔母の家は港のまん前でした。ひとたまりも無く、津波にさらわれてしまいました。叔母は、お風呂場の湯船だけが残ってたんだ~と言っていました。


訪れた時刻は満潮に近い時間。町内を流れる川の水位が異常に高く、今にも溢れそうになっていました。母が急に、津波が来たら怖い、帰ろう帰ろう、と言いました。叔母の家まで行くのは仕方なく断念しました。


私は車から少し降りて、町内をぐるっと見渡しました。見渡す限りのがれきの山を、どう言葉にすればいいかわかりません。このがれきの下に、もしかしたらまだ助け出されてない方がいるかもしれないというのを思いました。成す術も無いことにとても申し訳なさを感じました。

傾いた陽が、黄色く一面を照らしています。現実感のない景色が、黄泉の世界を思わせるようでした。そんな景色の中を、学校帰りの子供たちが無邪気に歩いています。笑顔の裏にはどんな思いを抱えているのだろう、と想像することしかできません。どうか、前を向いて歩いていって欲しいと思いました。



津波。

生きているうちにまさかこんな出来事を目にするとは。それも、よく知った自分の故郷で。今でも、宮城の被災地が~とか、東北の大震災が~と耳にしても信じられないような思いでいます。


3万人以上の方が、その地震で命をおとされ、まだ行方がわかってない方もいます。

海が壁のように高くなって、地面や家々を舐めるように飲みこんでいきました。


私の勝手な想像ですが、もしも海の神様が居たとして、津波を起こさざるをえなかったとします。人や動物を連れていかなくてはならない苦渋の決断をされたとして、その海の神様は「すまんなぁ」という気持ちで津波を発動させたように思います。

そこで命を落とした方は、その分恩寵を頂いて、光に包まれながら高い高いところへ上っていったように思うのです。

安らかなお顔のご遺体が多かったとも聞きました。

南三陸町を訪れて、安らかな空気が流れているのを感じたので、きっとそうなんじゃないかなぁと思うのです。みんなお空から見守っていてくれてるって。


ですから、残された私たちはそのように思って前を向いていくことしかできません。私たちがいつまでも泣いてばかりいたら、亡くなられた方も、きっと悲しい顔をされるでしょう。きっと、今は安心されているはずだ、苦しいけれど、辛すぎるけれど、だけど、私たちは頑張ろうって、頑張らなくちゃならないって、私は一人、そんなことを信じています。



無言になって洟をすする父母と、壊れたラジオのように、なんていうことが起きたんだろうねとうわごとのように繰り返す私を乗せて、車は南三陸町を後にしました。


車中で、お前は少しだまってろと父に叱られました。

私はショックのあまり、壊れていたのかもしれません。「ごめんなさい」と言いました。やっと口を閉ざした私は静かに考えました。



変わり果てた町。人が造ってきた景色。

一方であるがままの姿の地球。自然。

川は流れ、やがて海に辿り着く。その海が猛威を振るった爪あと。



生きていくってなんだろう、と考えます。

生まれてからずっと、表現の道を志したいと思ったのも、全ては生まれてきた意味を知りたくて、足跡を残してみたいということがきっかけでした。



答えはまだ知りえないのかもしれない。でも、確かな道しるべを教えてもらったような気がします。



復興の第一歩が、初夏の芽吹きとともに始まっています。人が前を向いて歩き出す姿というのはなんて美しいのでしょうね。日本という国が戦後最大の困難に立ち向かっていますが、必ず、この真面目で優しい心根の人たちはまた復興をやり遂げるでしょう。



きっと、花を咲かせます。

みんなで、それぞれの足元から、大きな花を咲かせます。



今年は桜を見るのをすっかり忘れていました。



故郷でこんなに多くの想いをバッグに詰めて、そうして私は今此処に戻ってきました。



よし!前を向くべ!と決めた自分は、鏡の中でなかなかいい顔をしていました。

いっぱいいっぱい、いい笑顔で頑張っていこうと思いました。



宮城の帰郷ブログは以上です。

連日に渡って沢山の文章を読んで頂き、ありがとうございました。